【新共通テスト記述式】産経新聞9月11日付「主張」を批判する

9月11日付の産経新聞に「主張:大学入試改革 豊かな知識で学ぶ意欲を」と題された記事が掲載された。

私がこの記事に対して批判したいことは次の2点だ。

  • あたかも大学側が怠惰であるかのような不当な非難
  • 入試科目を増やすという提案に対する具体例の欠如

「論点整理」を無視して大学側だけを非難する不見識

大学入試はどう変わるのか。センター試験に代わる新テストの概要など入試改革の進捗(しんちょく)状況を文部科学省がまとめた。

 思考力や表現力を重視するあまり、知識軽視となっては「ゆとり教育」の二の舞いになる。各大学の個別試験を含め、しっかり学ぶ教育につなげてほしい。

 新テストで、国語と数学に記述式問題を加えることは評価できよう。センター試験の前身の共通1次試験時代から、マークシート方式に対し、「考える力が育たない」との批判があった。

 記述式の採点には時間がかかるという課題に対し、受験先の大学が採点する案は現実的だろう。大学の負担が増えると反対するのはおかしい。どんな学生を採り育てていくか、大学の責任は重い。採点が面倒だと考える大学教員がいるなら、意識を変えるべきだ。

 この記述の後半が産経記事の最大の問題点である。

まず第一に、記述式試験の採点を大学側が採点するという案を「現実的」と評価するなら、少なくとも、国立大学協会が「論点整理」の中で提示した問題点について明確な回答を与える(ことができる)べきだ。産経記事では、「負担」の問題についてだけ直後の文章で書いているが、それ以外の問題点がさまざまなに指摘されていることを結果として隠蔽している。この方式の問題点は、採点の負担だけではない。

国立大学協会の論点整理では、負担の問題以外に、本文中で、

  • 大学(学部)によって対応が分かれる可能性

が指摘されている。現在すでに記述式試験を2次試験で課している大学が新共通テストの記述式問題を選抜基準から外す可能性である。

さらに別紙の中で、次の9項目の課題・論点を示している。

新テストの共通試験としての性格
全ての問題を統一的に採点処理しなければ、共通試験としての性格が失われるのではないか。
センターによる採点基準の設定等
センターはどの程度の採点基準を示すのか。解答例や採点例まで示すのか。段階別表示の方法を含め、各大学における採点にどの程度の裁量を与えるのか。
センターによるクラスタリング等の前処理によって、各大学の負担はどの程度軽減されるのか。
センターで3段階程度の大まかな段階評価を行い、それをそのまま使うか、さらに詳細な評価を行うかは各大学に任せるというような制度設計はあり得るか。
各大学における採点
自ら作成したものではない試験問題について、出題意図や採点基準の的確な把握と採点者間の共通理解の下に、責任ある採点ができるか。結局、作問も各大学が行う方が良いということにならないか。
受験者が前期・後期など複数大学を受験する場合、同一答案について、大学により点数に差があっても問題はないか。
第1段階選抜、推薦入試・AO入試における新テストの結果の利用
各大学が第1段階選抜を実施する場合や推薦入試・AO入試において新テストの結果を利用する場合には、記述式以外の点数のみを利用することでよいか。
実現可能性・セキュリティの確保
新テストを受験した全受験生の中から、出願のあった各大学別に受験生の答案を整理・選別し送付すること等が物理的に可能なのか、また、送付する(複数大学に送ることもあり得る)ことによる漏えい、紛失等を防止するための技術的な措置は可能か。
問題内容の充実の程度
この方式を採ったとしても、試験時間の制約が存在すると考えられるが、どの程度問題内容の充実(字数、問題数)を図ることができるか。受験生の負担や実施体制を考慮しつつ、十分な試験時間をどのように確保することができるのか。
新テストの記述式利用に関する各大学の裁量
個別試験で記述式を全受験生に対して実施している大学・学部は、入試要項にアドミッションポリシーを明記し、新テストの記述式を利用しないことを認めることができるか。
大学関係者の理解・協力
記述式試験の実施が高校教育の質的向上を図る目的であるならば、国立大学のみならず、公私立大学を含めた多くの大学が入学者選抜にこの試験を導入しなければ効果がない。公私立大学関係者の理解と協力を得ることが可能か。
採点実施に係る財政措置の問題
各国立大学が大学入試センターの代わりに実施する採点に係る経費についての財政措置をどうするのか。

 これらの課題・論点に整合的にこたえられない限り、大学側が採点する方式を「現実的」などと断定することは不当である。

 

第二に、「負担」に関する議論で大学側を非難するのは一方的すぎる。産経記事は、「採点が面倒だと考える大学教員がいるなら、意識を変えるべき」と非難するが、これはあまりにも不当である。その理由の一端を述べれば次のようになろう。

  • 一口に大学と言っても、現実にどのような選抜方式を用いているかは極めて多様である。現在、国公立大学センター試験の成績と記述式問題を含む二次試験を独自に課して入学者選抜を行う方式が一般的であり、この観点からみれば自らの大学で育てる人材を選抜するために、既に記述式問題の作問と採点に相当の労力と時間をかけて自前で行っている。
  • 今回の新共通テストにある記述式試験は、与えられた採点基準と自分の大学のアドミッションポリシーに基づいた採点が求められているが、自らが作問に関わることはできない。そのような問題の場合、出題意図を共有できず、また採点基準の妥当性について採点者が十分な合意を得ることは極めて困難である。そのような形で採点を行うことは現実的にかなりの労力を伴い、場合によっては相当な苦痛を伴う。
  • そもそも記述式試験で出題される内容が、自分たちの大学の求めるアドミッション・ポリシーと整合的となる保証もなく、「どんな学生を採り育てていくか」とはおよそ無関係の問題の採点を行わなければならない能性も決して低くない。
  • 現在記述式試験を課していない大学の多くは私立大学である。これらの大学が大学側が採点するという方式を採用しづらいのは、単なる怠惰や意識の低さや無責任だからではない。ひとつは大学独自の選抜試験の実施時期とセンター試験実施時期とが石器真しているためにそもそも国立大学とは採点にかけられる時間的余裕が全く違う点である。また、これらの大学は入試の複線化にともなって多数回の試験を実施しており、受験者数も多く入試日程も過密になっている。そのような状況で受験者全員の記述式試験を統一した基準で採点するために必要な時間と人員の余裕が極めて少ない。

例えば上智大学(私立)の一般型の選抜試験は、センター試験を利用せず独自の試験を行っている。例えばマークシート方式や、記述式とは言っても単に答だけを書かせる方式が多数盛り込まれている。もちろん解答の過程を書かせる記述式や字数の多い記述式の問題もある。上智大学の入試日程を見ると、例えば、2月4日から2月9日までの6日間、毎日一般型の入学試験が実施され、(面接などを課さない学部学科の場合は)概ね5,6日程度で最終的な合格発表が行われている。この型の入試の場合、2015年度は6日間全体で1,385名の定員に延べ23,114名の志願者があった。ちなみに出願締め切りは1月25日であったから合格発表まで20日前後しかない。

 

これらの観点だけを見ても、大学側が採点するという方式のデメリットは、単なる「負担増」や「面倒だ」という感情的な面とは全く異なっている。こうした「現実的」観点を見落として大学側の怠惰や意識の低さや無責任を批判するのは極めて不当である。

 

何を批判するべきなのかが曖昧

思考力や表現力を重視するあまり、知識軽視となっては「ゆとり教育」の二の舞いになる。各大学の個別試験を含め、しっかり学ぶ教育につなげてほしい。

という記述は、全体として誰に何を要求しているのかが曖昧である。高大接続システム改革会議の最終報告は、個別大学の入学者選抜について、次のように述べている(p.43-44)。

具体的な評価方法としては、例えば、次のようなものが考えられる。
・ 「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の結果
・ 自らの考えに基づき論を立てて記述させる評価方法
・ 調査書
・ 活動報告書
・ 各種大会や顕彰等の記録、資格・検定試験の結果
・ 推薦書等
・ エッセイ
・ 大学入学希望理由書、学修計画書
・ 面接、ディベート、集団討論、プレゼンテーション
・ その他
今後、各大学の入学者選抜において、「学力の3要素」を評価するため、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の導入による「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」の十分な評価とともに、調査書や大学入学希望理由書、面接など多様な評価方法を工夫しつつ、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」についての評価を重視すべきである。

産経記事の執筆者はこうした方針についてどう考えているのだろうか。そもそも今回の入試改革の大きな方針は、1点刻みの選抜から脱却し、個別試験でも上記のような「筆記試験以外の方法」を採ることを推奨することにあったのではないか。もし産経記事がそうした方向性に反対するなら文科省や上記最終報告書についてもっと直截に批判するべきだ。

 マークシート方式に対し、「考える力が育たない」との批判があった。

 という部分も内容が曖昧だ。マークシート方式の試験で全方位的な学力が測れるはずはないし、記述式試験に比べれば難易度も下がることは間違いない。しかしだからといってマークシート方式の試験に解答するために「思考力」が全く必要ないなどという議論は乱暴である。国公立大学で言えば、マークシート方式のセンター試験は事実上の「資格試験」であり、基礎的な内容全般を把握しているかどうかを短時間で網羅的にチェックする試験として十分な意味を持ち、しかも多くの科目で、ただ単なる用語選択ではなく、長めの記述の正誤判定や内容理解・資料の読解や考察といった内容を含むよう工夫が重ねられてきている。

他方、マークシート方式の試験のみで合否を判定する私立大学入試も多くある。それらの入試で学力が十分に測れないと批判することは可能ではある。しかし、これにも制度的な限界を十分に想像できていない面もある。

第一に、受験者数と試験の回数が多く、すべての試験で記述式の問題を作問・採点するだけの物理的な時間・人員の確保が難しい。

第二に、そもそも受験生のレベルを考慮すると、記述式試験では選抜に資する得点分布が得られない危険性もある。一般的にマークシート方式より記述式試験の方が難易度が上がるからである。

 

入試科目増を求める具体例の乏しさ

産経記事の後半では、

新テストに注目が集まるが、私大の推薦入試を含め、個別試験の改革を忘れてはならない。とくに受験科目が少ない入試の見直しを求めたい。

と入試科目増を求める記述がある。

受験科目を減らした「軽量入試」につながり、物理の知識がない理工学部生や数学が分からない経済学部生を生んできた。苦労するのは入学後の学生であり、その教育にあたる大学自身である。

 豊かな知識が身についてこそ、その先を学びたいとの意欲や創造力につながる。入試改革にあたって文科省などは明確にメッセージを発すべきだ。

 とある。「軽量入試」を批判する主旨は理解できる。しかしこれは、文科省のメッセージで解決できるような問題かどうかかなり疑わしい。

例えば一時期国公立医学部でセンター試験と2次試験で合計理科3科目を必須とした時期があった。しかし理科2科目のままとした医学部に志望者が流れ、結果としてそうした大学の偏差値が急騰したという事例もある。一部の大学が「科目増」をしても、それらの大学から受験生が離れるというだけという傾向があることは否めない。

しかし産経記事は

受験科目を増やしても、教育内容が伴うことで意欲ある受験生が増えた大学もある。

という。具体例を挙げるべきである。こういうことは宣伝になるのだから、具体例を明示しない理由はどこにもないはずである。この事例が十分一般的なものであれば大いに参考になるであろうが、この記述だけからではどういう事例なのかまったくわからない。