令和元年度 全国学力調査 英語「話すこと」大問2について

 令和元年度の全国学力調査の結果がまとまった。今回初めて導入された英語の問題やその出来具合についていくつかのメディアで報道が出ている。今回は、英語の「話すこと」の大問2に焦点を当てる。資料はこちらにpdfがある。

 

問題と解答類型

まず問題は次のようなものである。下記の会話文を聞き取って英語で答える形式。

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報告書に掲載された解答類型とその説明の一部を引用する。

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問題提起のツイート

上記の解答類型4の中に、"No, I haven't."具体例が取り上げられていたので、私は次のようなツイートをした。

 

“No, I haven’t.“ という「誤答例」についての上記ツイートに様々な方から様々な角度でコメントを頂いた。ここにすべてを引用することはできないが、感謝したい。“No, I haven’t.“が正答と評価すべきかかそれ自体だけでなく、「話すこと」を問う出題の抱える様々な問題が関連しているように思う。

これは、今後導入されようとしている英語民間試験の大学入試への導入や大学入学共通テストで問われようとしている思考力や表現力、あるいは記述式出題にも実は関係している問題点なのではないかと思うので、以下私なりに整理してみた。

 主要な観点は3つ。

  • "No, I haven't"そのものについての是非
  • 「2人のやり取りの内容を踏まえて,会話が続いていくように英語で応じてください。」という設問の意図
  • 会話文自体の不自然さ

各項目に、英語民間試験や大学入学共通テストにもつながる論点を【補足】として付けた。なお、以下の議論を組み立てるにあたって参考にさせていただいたツイートは多くあるがすべてのお名前やツイートを一つ一つ引用する形では書いていない。私のアカウントで、参照したツイートはできるだけRTさせていただいたと思うので、ここでは改めて謝辞だけを述べておく。

“No, I haven’t.“そのものについての是非

 イギリス英語では認められる余地も多少ありそうだという観点、一方で(例えば学校英語がベースとしている)文法的にはまずいという観点、仮に文法的にまずくてもある程度通じるであろうことをどう評価するかという観点、そもそも“No, I haven’t.“だけで回答者の意図をはかりきれるかという観点など、多くの論者の間に意見のグラデーションがある。全国学力調査の採点者は、“No, I haven’t.“という回答を見て、こうした意見のグラデーションが生じうることを十分に検討した上で、「解答類型4:やり取りを踏まえた内容を解答していない」に分類し、「やり取りの内容を理解していないか,何を問われているかを理解していないため,適切な英語で応答できていないと考えられる」という評価を付けたのか疑問だ。しかも解答類型4に分類するという時点で、"I have no question."のような解答は想定していない可能性もあり、もしそうだとしたら出題者側の想定があまりに不足していると言わざるを得ない。

 

【補足】 もし、“No, I haven’t.“という回答が非常に稀なものであれば全体としての解答傾向には影響を与えない場合もあり、全国学力調査としては殊更重大視する必要はないという見方もある。しかし、全国学力調査の報告者はあえて誤答の具体例としてこれを挙げている。ということは必ずしも稀ではなかったのか。誤答例がどのような基準で選ばれているかも不明瞭だ。しかもこれは大学入試に利用される英語民間試験の場合には状況を異にする。大学入試に使うのであれば、どんなに稀な回答であってもほかの回答と引き比べて相対評価を付けなければならない。従って、“No, I haven’t.“という回答の妥当性について採点者は向き合う必要がある。例えば今回の学力調査では、”What does she cooking now?”が「解答類型2:やり取りを踏まえた内容を解答しているが,コミュニケーションに支障がない程度の誤りがあるもの」に分類され、正答扱いになっている。(例えばなぜtheyではなくsheなのかは不明瞭。)大学入試に利用する民間試験だったとしたら、“No, I haven’t.“は×だが、”What does she cooking now?”は〇とした根拠を説明できなければならない。

 

「2人のやり取りの内容を踏まえて,会話が続いていくように英語で応じてください。」という設問の意図

 現実のコミュニケーションの場面では、“Do you have any other questions about them?”と聞かれて、”I have no question.”と応える場合はありうる。実用英語の掛け声のもと現実のコミュニケーションに資することを強調する向きもあり、現実的にありうる答えを誤答としてよいとも一概には言えない。
 しかし、本問では「会話が続いていくように」という指示があるし、コミュニケーションのための英語を教育するという大前提から考えれば、何も質問しない解答を推奨するべきではないという議論は一定の妥当性を持つと思う。ただ、「会話が続くように」という指示が何を意味しているかは必ずしも明瞭とはいいがたい。“Do you have any other questions about them?”に対する応答として意味が通ればよいということは含意している(「私はリンゴが好きだ」と応答しても会話が続いているとは言えない)。しかし、問いに応答してそれにアラン先生が答えるというところまで含めて「会話が続いていく」という指示の中に含まれているとまでは言い切れない。いや、出題者は後者の意味で「会話が続いていくように英語で応じてください」と書いたつもりでも、実際には、前者の意味でも理解しうる余地が残っている点で出題者側の指示が不徹底なのではないか。

 

 実際には、私は別の見方もありうると考えている。この会話文を聞いて、アラン先生に何か質問するとしたら最も聞きたいと思うことは何であろうか?写真に写っている2人がアラン先生の母と兄(または弟)であることはわかっているし、料理をしていることもわかっているし、なんとなく七面鳥料理のような雰囲気が見て取れる。もはや写真の人物についてよりも、最も質問したいことは、「アラン先生がなぜこの写真を気に入っているのか」ではないのか。だから“Do you have any other questions about them?”については、「ないです。それよりも…」と応じることは可能にさえ見える。現実的なコミュニケーションとしてみれば、この設問自体が非常に不自然にすら見えるわけだ。

 

【補足】 大学入試で利用される英語民間試験においても、「あなたの好きな○○は何か」というような質問に答えるwritingやspeakingの問題が見受けられる。こうした場合でも、「○○は嫌いです」とか「○○には興味がありません」と応じる余地はあり、そのような場合の採点がどうなっているのかはっきりしない。
 一方で、例えば大学入学共通テストの記述式問題のように、短時間で採点しなければならない制約がある場合など、設問の中に解答の範囲を強く制約する文言を入れることで、正答とする答案の幅を狭くコントロールしようとするやり方がある。本問では、アラン先生に対する質問の内容が”about them”と非常に強く限定されたために、本当は一番聞きたいはずの「なぜお気に入りなのか」を質問する余地がなくなってしまった。全国学力調査は、採点時間にも十分余裕があるのだから、あえて解答を強く制約するような条件を付ける必要はないにも関わらずなぜこのような制約を付けようとするのか理解に苦しむ。もちろん共通テストだけではなく、英語民間試験でもこうした不自然な解答の制約を付けた問題が出題される可能性はあり、それは採点の効率化という点では意味を持っていても、学力評価としての適切性の観点からはかなり危ないと言わざるを得ない。

 

会話文自体の不自然さ

 設問で与えられたアラン先生とユイコの会話にも様々な不自然な点が指摘された。” He can cook very well.”という表現の拙さや” Do you have any other questions...”という問いかけのニュアンスの問題、そしてそもそもユイコの2つ目の質問” What kind of work does your mother do?”の不自然さなどだ。写真に関係することではない「母親の職業」にいきなり質問が飛ぶのは相当不自然だ。
 すでに述べたように、この問いでは、「なぜアラン先生がこの写真をお気に入りなのか?」といった自然な質問が排除されているので、「二人で作っている料理は何か?」のような質問が想定されているのであろう。ユイコにはそれを避けて何か別のことを尋ねさせる必要があったということかもしれない。

 

【補足】大学入学共通テストでも話題になったように、昨今のこうした調査や試験では、数人の登場人物が会話している状況を踏まえて設問に答えるという形式の問題が多く採用され、しかもそれが実用的なコミュニケーションの称揚と軌を一にしているように見える。しかし、この創作された会話は、解答を一定の幅でコントロールするための非常に雑な組み立てであったり、出来すぎな人同士が不自然な会話をしたり誘導したりすることもある。実用的なコミュニケーションをどう捉え、それに資する問題をどう設計するかということがあまりも検討不足なために、一見実際的な会話のように見えて明らかに創作的なものに堕してしまうことに懸念がある。しかも、そうした出題者の過剰な創作的会話文を元にした設問に答えることが、本当にコミュニケーション能力の向上に資するのかどうかさえはっきりしない。例えば、今回の問題の正答例とされたものを答えられるようになることが、英語を話す能力の向上に資するものなのか、そもそも話す能力を適切に測定できる問題なのかも全く判然としない。

 

 結び

 本問が「話すこと」に関する能力を適切に測定しているのかどうかは判然としない。私は英語教育の専門家ではないので、その点について軽々しく結論めいたことを述べるのは控えたい。ただ、本問は、全国学力調査という採点のためにかけられる十分な時間を取れる調査であるにも関わらず、作問方法は過剰に解答の方向性を制限しようとしているように見える。しかもその作り方がかなり雑だし、出題者が想定される解答例やその評価方法について丁寧に検討したとは思えない文面になっている。作り物めいた会話文が、実用的な英語のコミュニケーション能力(本問の場合は「話す」能力)の評価や育成の方向性として適切なものであるかどうかもはっきりしないまま、こうした形式が氾濫していきそうな気配もある。こうした問題は、根底では、英語民間試験の「Speaking」試験の内容や大学入学共通テストにおける記述式問題、あるいは新学習指導要領といった入試制度や教育制度の見直しとも関係していると考えられる。ぜひ多くの分野の方々にこうした問題を具体的に検討して頂き、様々な意見を共有していければと思う。