身体的な感覚の共有を求めること─高橋純子『仕方ない帝国』評─
「エビデンス?ねーよそんなもん。」という衝撃的な一文で、高橋純子氏の『仕方ない帝国』(河出書房新社)が話題である。
新聞記者は、ウラを取って書けと言われるが、時に〈エビデンス? ねーよそんなもん〉と開き直る。政治部次長だった時に書いた朝日新聞のコラム「政治断簡」をまとめた著書「仕方ない帝国」(河出書房新社)が評判だ。キチッとした優等生の文章が当然の朝日において、時に〈『レッテル貼りだ』なんてレッテル貼りにひるむ必要はない。堂々と貼りにいきましょう〉とあおり、〈安倍政権は「こわい」〉と言い切る。テンポ良く、小気味いいが、もちろん、炎上も数多い。
が、どのような意図をもって書かれたものか、読者によっても受け止めがいろいろと異なるようだ。もちろん、日刊ゲンダイの書き方は非常に誤解を招きやすい書きぶりになっている。そもそもこの書き方だと、高橋氏の著書からの引用であることすらわかりにくい。
「エビデンス?ねーよそんなもん。」は明らかに違和感がある。
既にいくつか指摘が出ているように、高橋氏の著書で登場する文脈は、一見すると、「エビデンス?ねーよそんなもん。」という衝撃的な文から抱く印象とは違った形になっている。原文は次のような文面だ。
私は、読者はあくまでも読者で、「お客様」とは思っていない。ひとりでも多くの人に読んでほしいと書いているが、気に入られようとは思わない。嫌われたり読み捨てられたりしながら、読者の思考をちょっとでも揺さぶりたい。はい。きれいごとですよ、きれいごと。だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。エビデンス? ねーよそんなもん。(p.19)
実証的な根拠を提示するべき場面で「エビデンス?ねーよそんなもん。」と開き直っているという態度を取っていると想像していると、実際には違うように見える*1。
例えば、池田信夫氏は次のように述べている。
これは「私のなかで何かが終わる」という気持ちにエビデンスがないという意味で、朝日新聞が報道でエビデンスを出さないという話ではない。
あるいは、
「読者はお客様ではないという信念を曲げたら、自分の中の何かが壊れてしまいそうという不安や恐怖があるけれども、そこにエビデンスがあるかと聞かれればそれはない」という意味だと僕は思いますが。
というQusAka氏の解釈もある。
「何か」(=記者としての内的な行動規範や矜持)には「エビデンス」など無い(=それがもたらす効果の証拠は示し難い)
というwatcher氏の解釈もある。
この3つの解釈にさえ微妙な差があるようにも見えるが、いずれにしてもこうした読みは「大人の解釈」であろうと思う。
しかし、原文をよく読んでみると、違和感がある。
「エビデンス」というのは、「根拠」「論拠」「証拠」の意味で、何らかの主張をした場合には、それを裏付けるためのデータや根拠が必要となることを前提に、「エビデンスはありますか?」などと問いかけられる。
では高橋氏の原文にある「エビデンス?」とはどういう意味だろう?なぜ疑問符がついているのか?誰かに「エビデンスはありますか?」と問いかけられ「エビデンス?ねーよそんなもん。」とこたえるならわかりやすい*2。しかし、「だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。」と書いた(あるいは言った)とき、「エビデンスはありますか?」などという問いかけがなされるとは思えない。例えば、「何かって何ですか?」という問い返しならあり得る。でもそこに「エビデンス?ねーよそんなもん。」と応答するのはやはりおかしい。「何かって何ですか?」はその「何か」についてのさらに踏み込んだ説明や言い換え、言語化を求める問いかけであって、「根拠を示せ」という要求ではないからだ。
だけど、そこを曲げたら私のなかで何かが終わる。何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。エビデンス? ねーよそんなもん。
という文章の「エビデンス?ねーよそんなもん。」という部分が意味不明なのだ。どういう問いかけに対しての応答なのかがわからない*3。上で紹介した池田氏やQusAka氏、watcher氏の解釈も一見当を得ているようで、実のところ意味はよく分からない。「気持ちにエビデンスがある/ない」という言い方が奇妙だし、「何かが壊れてしまいそうな不安や恐怖がある」という言明に対して「そこにエビデンスはあるかと聞く」人は普通いないと思う。「エビデンス?」という部分は、「何か」に関することであって、そこを「(内的規範や矜持の)効果の証拠」と読むのも無理筋に見える*4。
実際には、この「エビデンス?ねーよそんなもん。」は、次の文章との関連で読むしかないように思う。原文は段落を変えて次のように続く。
目には見えないものを大事に思うことで、この世界のある部分は成り立っているはずなのだけど、それを上手に説明したり理解したりしてもらうのは、昨今なかなか難しい。消費社会、経済の論理が全面化しているから。損か得か。結果だけ。数字がすべて。(p.19)
この部分まで込めれば「何かは何か。何かとしかいいようがない、何か。エビデンス? ねーよそんなもん。」という文章は、私の中で終わってしまう「何か」について、これ以上言語化(≒目に見える)することはできません(するつもりはありません)という意味だとはっきりする。「目に見える形にする=エビデンスを示す」ということを拒絶しているのだ。そして「目に見える形」の代表例が、「数字」「結果」「損得」といった観点なのである。
こうした考え方は、「第一章 深くねむるために」の中で繰り返し強調されている。例えば直後のp.20には、
ブラック企業は、過労自殺というような犠牲が出るまで可視化されずにはびこる。値段の割に美味しい。安い割にサービスがいい。そのために人間の生が切り詰められてることに、残念ながら私たちの想像力は及ばない。数字に負けちゃってるんだよね、人間が。
とか
目には見えない民主主義的価値があれもこれもと毀損されているこの時に、目先の損得を優先して動くなら、どんなに美辞麗句を並べたところで政治家としての一線を越えたと言わざるを得ない。
といった文章があり、その後に、「無形の蓄積」という吉本隆明の言葉を付された節があり、
目には見えない。人にも分からない。でも確実に、積み重なっている。
目の前の評価や損得といった、かたちのあるものばかりを追い求めるのをやめて、そういうふうに仕事や人生を捉えられたら、5年後、10年後の自分が楽しみになる。
生きていることがきっと、楽しくなる。
と結ばれていたりする。
可視化しにくいものや言語化しにくいもの、従って他者との間で共有することが難しいものという部分にも価値がある。それらの価値は、無理に可視化・言語化・数値化して表現したり、結果としての現れで評価してしまうことでかえって損なわれてしまう。
というような考え方が時には一定の意味を持つことはありうる話だと思う。しかし、それを「エビデンス」という言葉で括って表現する、その言語感覚に、私はついていけない。しかも「エビデンス?ねーよそんなもん。」という粗暴な語り口は、本来可視化や言語化が必要な場面でも、それらを拒否する態度を招きかねない危うさがあるように見える。確かに高橋氏の原文は、一見すると自分の内面的な気持ちをそれ以上言語化することはできないと言っているだけのようにも見えるが、その後の文と併せて読めば、「数値化」が「経済の論理」と呼応していることへの拒否感の表明などともあいまって、結局のところ「エビデンス」を提示することが必要な場面ですら、その土俵に乗ることを避ける文脈へつながるように見えるからだ。「エビデンス?ねーよそんなもん。」に脊髄反射してはいけないが、そうした脊髄反射的な反応で批判されている立場を高橋氏は結局のところ表明しているのではないだろうか?高橋氏は、実証的な議論が必要な場所では精緻に根拠づけられた議論を展開できる/するだろうか?私にはそれは疑わしく思える。
身体的な同調を求める「特徴的な文体」
個人的な体験を語る。
著名な人物の発言や書物から引用する。
自分の考え方や感想をまぶす。
高橋氏の『仕方ない帝国』にはそうした文章が多くみられる。人によっては、それを情緒的に過ぎると批判するかもしれないし、逆の見方で見れば、ある種の作文法のようにも見え、場合によっては良いと評価する人もいるかもしれない。
例えば、日刊ゲンダイのインタビューの中で高橋氏は、
政治断簡は、ひとりでも多くの読者に自分の言葉が届いたらいいなと思って書いています。そのためには、もっともな内容をもっともらしく書いても、読者には届かない。読者に読んでもらうには身体性のある表現が必要だと思っています。
――身体性とは?
極端に言うと、論の精緻さよりも、筆者の感情を込めた文章です。筆者がこれだけ怒っているとか、うれしいとか悲しいとか、そういった表現が今の新聞には失われているように思います。社説を書いている時から、筆者の体温が感じられるように書くことが大切だと考えていました。
と述べ、身体性の重要性を強調しつつ
安倍政権の振る舞いや政策を正面から論じても読者はピンとこない。政府もヘッチャラです。なぜなら、向こうは百も承知で「人づくり革命」「1億総活躍」をはじめとする、欺瞞的で、人間を道具扱いするかのごときキャッチフレーズを次々と繰り出してはばからないからです。欺瞞を正面から論破するのは難しい。だから「なんか嫌だ」「どっか気持ち悪い」などといった自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝えないと、権力に対峙したことにならないんじゃないかと思うんです。
と述べている。
「精緻な論」や「正面から論じる」こともできるが、それでは伝わらないので、別の文体を模索したというような流れになっているように見える。すると
「愚民共はこれぐらいかみ砕かないと分からないんでしょー」感がすげーんだよ
で、その見下した挙句出てくるレベルの文章が酷いんだよ
読者をなんだと思ってんだよ、あいつ
というすくすく。氏ような反応も出てくる。どうせ精緻な論や正面から論じるということをしても(やれと言われればできるが)読者には伝わらない(≒わからない)ので、身体的な感覚を述べる方が伝わるのだという意識が高橋氏の中にあるとみているわけだ。
しかし、前節でも疑問を呈したように、高橋氏が「精緻な論」や「正面から論じる」ことがそもそもできるのかどうか疑わしいと思う。そうしたことができる人は、「自分のモヤモヤした感情をなんとか言葉にして読者に伝える」ことが大切だというような言い方をしないのではないか。間違いなく正しいと思える論があるなら、「なんか嫌だ」とか「どっか気持ち悪い」という感情にまかせた文章には、普通はならない。「なんか嫌だ」ではなく、「○○は××という観点から正しくない」という議論の仕方にならざるをえない。だが高橋氏の文章は到底そういう体裁には見えず、本人も「身体的な文章」でいいんだと「開き直っている」。何が嫌なのか、何が気持ち悪いのか自分にも説明できない(その身体的な感覚をそれ以上言語化しても政権にダメージを与えられるわけではないので価値がない)ので、「嫌だ」「気持ち悪い」という身体的な感覚を共有しましょう、むしろ可視化・言語化・数値化されないそうした身体的な感覚の方がより重要なのですと言っているだけにしか見えない。高橋氏は、精緻な論を組み立てることは最初から放棄している(あるいは組み立てができない)ように見える。そのうえで「エビデンス? ねーよそんなもん。」と開き直っているように見える。だとすれば脊髄反射的な批判にも結果的にそれなりの理があったようにも見える。
一定の論理性とそれを裏付けるエビデンスを提示することは、(それへの賛否は別として)何が言いたいかを理解してもらうための最善に近い方法であると思う。高橋氏の文章に限らないことだが、身体的な感覚の表明された文章には様々なデメリットがある。
あいまいな引用に粗雑な言葉をまぶすこと
第一に、その感覚を共有できない場合には、意味を汲み取るのが非常に難しい。高橋氏の『仕方ない帝国』も文意のよくわからない引用とそれへの自己流の解釈に溢れているというように見える。
例えば、
深くねむるために 世界は あり
ねむりの深さが 世界の意味だ
鶴見俊輔「かたつむり」
たった26文字で構成されたこの詩の、途方もない余白の大きさ、圧倒的な奥行き。これぞ世界と思う。そして、現実世界の奥行きが、たった26文字にかなわないことの不思議を思う。数字とか、結果とか、目に見えるものだけでこの世界はできているわけじゃない。
あなたが、私が、深くねむるために。世界の余白に思いを馳せ、少しずつ、美しい色をのせていく。政権が変わろうが、社会のシステムが変化しようが、鉛筆を握っているのはけっきょく、私たちひとりひとりなのだ。あなたにしか出せない色で、さぁ、この世界を。(p.23)
よくわからない。鶴見の詩が何を言いたいのかもよくわからないし、「現実世界の奥行きが、たった26文字にかなわないことの不思議」もよくわからない。それが「個性礼賛」のような文脈につながる論理もよくわからない。
言葉は安易に振り回さない方が良い。わからないものはわからない、難しいことは難しいと言いながら、深く潜って、言葉をつかまえた方がいい。さて、どこに潜れば?ひとつ、心当たりがある。
「『今日の惨めさ』を、『明日のもしかしたら』にすり変えていく、その人々の志向の中に、ファシズムの芽が育まれる」
(田中美津『いのちの女たちへ』)
いつしか私たちは「明日のもしかしたら」を為政者に委ねてしまってはいないか。自分の惨めさを引き受けることから逃げて、鼻先に「もしかしたら」のニンジンをぶら下げられ、為政者のために走る馬に成り下がってはいないだろうか。この国の、自分自身の惨めさの中に潜って潜って、言葉をつかみとりたい。それは「明日のもしかしたら」を自分自身のものにするための糸口となるはずだ。(p.82-83)
ここも同じだ。やはり引用されている田中美津の言葉が良くわからない。どういう文脈で何を意図して発せられたものか、この引用では不明だ。後段の高橋氏の言葉もわからない。「『今日の惨めさ』を、『明日のもしかしたら』にすり変えていく、その人々の志向」と、「「明日のもしかしたら」を自分自身のものする」とのつながりが不明だ。「すり変える」と「自分自身のものにする」がどう違うのかがわからないといってもいい。
嗤われるのは、数の力という「現実」に抗し、理念や理想を語る者。所与の現実から最大限の利益を得ることに腐心する「現実主義者」にとって、理想なんて1円にもならないキレイゴトだから。しかしー。現実ってなんだ?
「現実とはこの国では端的に既成事実と等値されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。」
(丸山眞男「『現実』主義の陥穽」)
そのように捉えられた現実は、容易に「仕方ない」に転化する。こうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に食い入り、日本の「現実」を泥沼に追い込んだか。丸山はこう、言葉を継ぐ。「ファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行ったのもまさにこうした『現実』観ではなかったでしょうか」。
既成事実への屈服が、さらなる屈服を生む。対米追従は仕方ない。沖縄に米軍基地が集中するのは仕方ない……。現状追認の無限ループ、そんな「仕方ない帝国」に生きてて楽しい?
嗤われたら笑い返せ。現実は「可能性の束」だ。私もあなたも一筋の可能性を手に、この世に生まれてきたのだ。(p.88-89)
ここは丸山の言葉と高橋氏の言葉が入り乱れている。高橋氏の言葉を混ぜ込むから何が言いたいのかわからなくなる。「・・・」で書かれていない部分も結局のところ丸山の言葉をなぞっているのだ。高橋氏は、丸山の言葉をすべて正確に引用するべきだ。ここに一部があったので、引用する。前後の文脈もある程度確認できる。
現実とは本来一面において与えられたものであると同時に他面で日々造られて行くものなのですが、普通「現実」というときはもつばら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等置されます。現実的たれということは、既成事実に屈伏せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。「現実だから仕方がない」というふうに、現実はいつも、「仕方のない」過去なのです。私はかつてこうした思考様式がいかに広く戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのつぴきならない泥沼に追い込んだかを分析したことがありますが、他方においてファシズムに対する抵抗力を内側から崩して行つたのもまさにこうした「現実」観ではなかつたでしようか。「国体」という現実、軍部という現実、統帥権という現実、満洲国という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変という現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実――そうして最後には太平洋戦争という現実、それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私達の観念にのしかかり、私達の自由なイマジネーションと行動を圧殺して行つたのはついこの間のことです。
高橋氏の著作にタイトルにもなっている「仕方ない」は、丸山の言葉であり、「戦前戦時の指導者層に喰入り、それがいよいよ日本の「現実」をのつぴきならない泥沼に追い込んだかを分析した」のも丸山である。高橋氏の文章はそこを曖昧にして、あたかも自分の言葉であるかのように書いてしまっている。精緻な論を展開する人は、こうした峻別には敏感であるはず/べきだと、少なくとも私は思う。
また丸山はそのあとにも議論を続けている。
日本人の「現実」観を構成する第二の特徴は現実の一次元性とでもいいましようか。いうまでもなく社会的現実はきわめて錯雑し矛盾したさまざまの動向によつて立体的に構成されていますが、そうした現実の多元的構造はいわゆる「現実を直視せよ」とか「現実的地盤に立て」とかいつて叱陀する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。
(中略)
そう考えてくると自から我が国民の「現実」観を形成する第三の契機に行き当らざるをえません。すなわち、その時々の支配権力が選択する方向がすぐれて、「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです。
(中略)
私達の言論界に横行している「現実」観も、一寸吟味して見ればこのようにきわめて特殊の意味と色彩をもつたものであることが分ります。こうした現実感の構造が無批判的に維持されている限り、それは過去においてと同じく将来においても私達国民の自発的な思考と行動の前に立ちふさがり、それを押しつぶす契機としてしか作用しないでしよう。そうしてあのアンデルセンの童話の少女のように「現実」という赤い靴をはかされた国民は自分で自分を制御出来ないままに死への舞踏を続けるほかなくなります。
丸山が何を問題にしていたかは明晰だし、「現実的たれ」という警句に潜む危うさは、高橋氏の余計な文章を読むより、丸山自身の言葉をそのまま提示した方が、説得性は高いことは明らかだ。もちろん、戦前戦中の指導者が国策を誤ったことが、何に起因しているのか、どのような思考様式によるものなのかは、実証的な研究が不可欠であり、丸山の分析が当を得ていると言えるかどうか疑問の余地もあろう。しかしそうした疑問の余地が明示できるのも、丸山の議論が明晰だからに他ならない。
丸山は、現実の「日々造られて行くもの」という側面を強調している。しかしそれを「可能性の束」などという安易な言葉でくくってしまってよいのか。戦前戦中の指導者たちは、対米戦において、圧倒的な国力の差という現実から目を背けて、一筋の可能性(とそれを支える精神論)に縋りついたのではなかったか。結局のところ、精緻な論でもって、見過ごされている別の現実を提示し、「可能性の束」の中から取りうる選択しを提示していくしかないし、それが政治の姿のはずだ。「理想」と「可能性」を称揚するだけでは何も生まれない。
身体的な感覚の共有はむしろ伝わらない
身体的な感覚の表明された文章のデメリットの第二は、まさにそれ故に、その身体的な感覚を共有できる人というのは、もとから筆者と一定の感覚の共有がある人に限定されやすい、ということだ。これは池田信夫氏が言うように
しかし彼女は「安倍政権は気持ち悪い」という感情をエビデンスもなしに下品な文章で書くので、話が読者に伝わらない。
となってしまう。あからさまな身体的感覚の表明は、その感覚を受け入れられない人にとっては何も共有できず反発を生むだけである。高橋氏は、多くの読者に気持ちを伝えることを目的として、そうした文体を採っていると開き直るが、結局、伝わるのは自分の仲間内だけということになってしまいがちだ。高橋氏は、身体的な感覚を表明する文章が、精緻な論や正面から論じることにくらべてより多くの人に伝わると思っているようだが、実態はその逆のように見える。
そして身体的な感覚に基づく文章は、どうしても一貫性を欠き、ねじれてしまいやすい。端的に次の文章を読めば、高橋氏はダブルスタンダードだという批判を免れないと思う。
首相の「命を守る」の裏側には、自分ではない誰かの「命をかける」が張り付いている。1分35秒に1回、その誰かと死の距離は近づいている。問われているのは、憲法9条の歯止めを外して、日本を「戦争をする国」にするのか。しかもその歯止めを、閣議決定による政府の憲法解釈変更で外していいのかだ。
ところが首相はこの問いに正面から答えようとしない。「お父さんやお母さんやおじいさんやおばあさん、子どもたちを助けられない。それでいいのか」といった類の弁を繰り返すばかりだ。
レトリックというよりはトリック。覚悟も熱意も感じられない。これが、日本の平和国家としての歩みを根本から変えようとしている最高権力者の会見か。国民にわかってもらうことを重視したという。だとすると政権が想定する国民像は、論理的な説明よりも、お涙ちょうだいが効く人たちだということなのか。
首相は「敵」を批判したり、嘲笑したりするのは得意だが、他者に何かを伝えるのは下手だ。反対する人を説得しようという気がそもそもないからだろう。「身内」に「いいね!」と言ってもらい、最後は数の力で押し切る。会見には、首相のそのような政治観がにじんでいた。(p.108-109)
高橋氏は、首相には、正面から答えることと論理的な説明と反対する人を説得しようとする意志を求める。しかし、自分は「読者に読んでもらうには身体性のある表現が必要だ」「エビデンス?ねーよそんなもん。」と開き直る。結局、高橋氏は、自らも首相と同じ手法を取っている、同じ穴の貉になっている。意図的か無意識かは別として。
もう一々引用しないが、他にも高橋氏は、首相の所信表面演説中のスタンディングオベーションを気持ち悪いと批判したりしている。しかし十分な言葉を尽くさず「敬意」の共有を求める首相と、「身体性のある表現」で「感覚の共有」を求める高橋氏の文体は、結局同じ文体でしかないのではないか。
作家の百田尚樹氏は「もし北朝鮮のミサイルで私の家族が死に、私が生き残れば、私にはテロ組織を作って、日本国内の敵を潰していく」「昔、朝日新聞は、『北朝鮮からミサイルが日本に落ちても、一発だけなら誤射かもしれない』と書いた。信じられないかもしれないが、これは本当だ。/今回、もし日本に北朝鮮のミサイルが落ちた時、『誤射かもしれない』と書いたら、社長を半殺しにしてやるつもりだ」とツイッターに投稿した。
あらタイヘン。そんな記事本当に書いたのかしら。「北朝鮮」「一発だけ」「誤射」でデータベースを検索したが、結果は0件。永遠のゼロ件。
百田氏の過去のインタビューなどから類推すると、おそらく2002年4月20日付朝刊「『武力攻撃事態』って何」のことだと思われる。
Q ミサイルが飛んできたら。
A 武力攻撃事態ということになるだろうけど、1発だけなら、誤射かもしれない。
北朝鮮を含め具体的な国や地域名は出てこない。一般論として、武力攻撃事態の線引きは難しいと言うことをQ&Aで解説する記事だった。(p.94-95)
「一般論として」という書き方は曖昧だ。一般論という言葉が使われるときには、「例外がありうる」という場合と「すべてに通用する」という場合とがある。
百田氏は後者と解釈しているのだが、高橋氏は前者だと主張したいのか。上のQ&Aがどういう意味で、どのような一般論を主張していると高橋氏が解釈しているのか非常にあいまいである。
そして、高橋氏は、自分は「精緻な論よりも身体性のある文章を書く」と宣言しつつ、百田氏には過去の新聞記事を遡って検索して、その引用が正確ではないというエビデンスを提示して批判するのか。これは端的にダブルスタンダードだと言わなければならない。
確かに、戦前戦中の指導者層は、様々な既成事実に屈服し、国策を誤ったかもしれない。しかし、身体的感覚の共有(理屈はいいから、「気持ち悪い」という感覚を共有しましょう)の先にだって、ファシズムは暗い口をあけて待っているのではなかったか。「アベは嫌い/気持ち悪い、個性万歳。」の先に、ファシズムの暗い入口は本当にないのか。批判しているつもりが、結局同じ穴の狢になってしまっているのではないか。
「エビデンス?ねーよそんなもん。」