共通テスト第2回試行調査 国語第2問は不適切な出題を含んでいる
新井紀子氏が、朝日新聞の天声人語や論理国語を批判する人たちを念頭に、次のように述べている。新共通テスト第2回試行調査の第2問で扱われた著作権法とその解説に関わる問題を、「国語として妥当」と評価し、この問題を取り上げないことは「やり方が汚い」と述べている*1。
こういう時に、本当に「やり方が汚い」と思うのは、論理国語反対主義者が執拗に第一回目の試行調査の「駐車場の契約」の話だけを繰り返し持ち出すこと。第2回目調査のこの問題は国語として妥当なので、都合が悪く「ないことにしたい」のだろう。
— 新井紀子/ Noriko Arai (@noricoco) August 17, 2019
しかし、第2回試行調査の第2問は、少なくとも試験問題としては極めて不適切な内容を含んでおり、到底妥当ではないと考える。本記事では3点指摘する。
- 問二の正答とされる選択肢が、正答としての許容範囲を逸脱している。
- 問六の正答の根拠が本文や条文に記載されていない。
- 事実上条文はまともに読まなくてよいという「隠れたカリキュラム」を助長している。
私個人は論理国語という科目に対する様々な懸念を持っている*2。しかし、論理国語なる科目を推進したいと考えている新井氏のような人こそ、実はこの第2問は問題として不適切であると述べるべきなのではないかと考えている。以下、そのことを説明したい。
新共通テスト 国語第2問
問題はこちらから見ることができる。 全文を画像で引用しておく。
問二の正答とされる選択肢が、正答としての許容範囲を逸脱している。
問二は、「記録メディアから剥がされた記号列」について、「考えられる例として最も適当なもの」を選ぶ問題である。選択肢は
- 実演、レコード、放送及び有線放送に関するすべての文化的所産。
- 小説家が執筆した手書き原稿を活字で印刷した文芸雑誌。
- 画家が制作した、消失したり散逸したりしていない美術品。
- 作曲家が音楽作品を通じて創作的に表現した思想や感情。
- 著作権法ではコントロールできないオリジナルな舞踊や歌唱。
の5つである。
文章中にあるように、著作権法のコントロールする対象は、原作品が載せられた実体=記録メディア(オリジナル)ではなく、その中に存在するエッセンスとして「記録メディアから剥がされた記号列」である。著作権法は、「記号列としての著作物」という概念を通じて、複製物などの物理的な実体に対してコントロールを及ぼす。この観点から設問を考えるとき、「記号列」の具体例として、実体にあたる選択肢2や選択肢3は外れる。1はやや紛らわしくも見えるが、文化的所産はやはり実体の側にあると考えるべきであろう。そもそも著作権法が対象としているものを考えているのだから、「著作権法でコントロールできない」とある選択肢5も外れる。従って正答となるべき選択肢は4以外にない。
しかし、著作権法第二条の一は
著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。
と述べているのに対し、選択肢4は
作曲家が音楽作品を通じて創作的に表現した思想や感情。
となっている。「思想又は感情を創作的に表現したもの」と「創作的に表現した思想や感情」とが(正答として許容されうる程度の)ほぼ同じ意味であると解釈することの妥当性が問題になる。現実の著作権法の解釈においても、ごく一般的な常識的な理解からいっても、「表現したもの」と「思想や感情」は分けて考える。作曲家がある作品をどのような動機や思想や感情から制作したのかということではなく、出来上がった音符の列としての作品(記録メディアによらない記号列)が著作権法の保護の対象になると考える。
文章の第13段落には、「表現/内容の二分法」についての記述があり、「表現の持つ価値の程度によって、その記号列が著作物であるのか否かを判断する」とあり、著作権法の保護する対象は、内容ではなく表現であると述べられている。作者の思想や感情そのものは「内容」に属するものであり、その「表現」を抽象的な概念として取り出して保護することで、どのような記録メディアに載せられているかに依らない保護を与えていると読むべきであるように見える。
もし今回の文章がそこを分けて考えず、「記号列」の中に「思想や感情」を含めるとするのなら、そう読み取れる根拠が必要になる。しかしそのような箇所を文章中から拾うことはできないように思われる。後の論点ともつながるが、「思想又は感情を創作的に表現したもの」を「創作的に表現した思想や感情」と読み替えることを許容しているのは、文章の筆者である名和小太郎氏ではなく、出題者の方ではなかろうか。だとすれば、解答を強要される受験者は、出題者の雑な理解を受け入れて選択肢を選ばなければならない状況に置かれていることになる。
念のため注意しておきたいことは、本問が実際の試験で出題され、それを目の前にして解答しなければならない受験者の立場に立てば、たとえ選択肢が明らかに正答とするべき基準から逸脱しているように見えても、正答と最も近いと思われるものを選択するしかない。「最も適当なもの」を選ぶのであるから、正答との相対的な距離だけを測ればよいとする議論もありうる。この問題のように出題者の用意した選択肢が正答としうる範囲からみるとかなり大きく外れている可能性もある。そういうことも想定し、相対的に最もまともなものを選ぶように指導しなければならない場合もあるだろう*3。しかし、特に試験問題としての妥当性の観点から言えば、私は、仮に他の選択肢が正答から明らかに外れており、該当する選択肢を選ぶしかないということを認めたとしても、なおその正答との絶対的な距離が開きすぎているのであれば、その問題は事実上の出題ミスであると言わざるを得ないと思う。本問は事実上の出題ミスであるというのが私の考えだ。
問六の明示的な根拠が条文にも本文にも見当たらない
問六は、市民楽団が市民ホールで行う演奏会について、「権利者の了解を得ずに著作物を利用できる」著作権の例外規定の条件として「当てはまるもの」を3つ選ぶ問題である。
- 原曲にアレンジを加えたパロディとして演奏すること
- 楽団の営利を目的としていない演奏会であること
- 誰でも容易に演奏することができる曲を用いること
- 観客から一切の料金を徴収しないこと
- 文化の発展を目的とした演奏会であること
- 演奏を行う楽団に報酬が支払われないこと
パロディ演奏であれ、容易に演奏できるものであれ、目的が文化の発展であれ、著作物を演奏するなら著作権法の保護下にあり、権利者の了解が必要なのだろう。条文を読まなくても、選択肢2、選択肢4、選択肢6が該当するように見える。著作権法の条文第三十八条に
営利を目的とせず、かつ、聴衆又は観衆から料金(いずれの名義をもってするかを問わず、著作物の提供又は提示につき受ける対価をいう。以下この条において同じ。)を受けない場合には、公けに上演し、演奏し、又は口述することができる。ただし、当該上演、演奏、上映又は口述について実演家又は口述を行う者に対し報酬が支払われる場合は、この限りでない。
とあるので、これが根拠ということになっているのだろう。しかし、「公けに上演し、演奏し、又は口述することができる」という部分が、「権利者の了解」を得なくてもよいのかどうかは、条文上も文章中でも明示的には触れられていない。実際、文章の第15段落以降でで触れられているのは「利用/使用の二分法」であり、利用には著作者の許可が必要だが、使用の場合には不要であると説明されている。しかし例外規定の説明は文章中にはない。うるさいことを言えば、「楽団の営利を目的としていない演奏会」という選択肢2も危ない。楽団ではなく「市民ホールの営利目的」の演奏会になる場合もありうる。第三十八条は、演奏者の営利だけに限定してはいないだろう。出題者はここを「楽団の」と限定してしまっている。また、営利目的でなく、観客から料金を徴収せず、演奏者に報酬も払わない演奏会であっても、不特定多数の人にむけて、例えば市民楽団の演奏会を無料でネット配信してもよいのかという問題もある。問題のポスターにある「例外となるための条件」が「必要条件」に過ぎないと読むべきかどうかも曖昧であろう。
もちろん、著作権法の規定において、許諾がなくても利用できる場合がありうるということは著作権法に対するごく常識的な範囲のリテラシーであるということは可能である。しかし、それを国語という科目で、受験者の中心をなす高校生に要求してよいかどうかは別の問題である。しかも、本文中に明示的に言及している箇所がないような社会的リテラシーを問う出題は、かなり危うい。出題そのものの是非や出題者側の誤りも起きやすい。
事実上条文はまともに読まなくてよいという「隠れたカリキュラム」を助長している。
国語において契約書や法律の条文を扱うべき、そのためにも「論理国語」という科目が重要であると説く人たち(例えば新井氏)は、契約書や条文を読むことが社会生活にとって重要なものであることが念頭にあるのだろう。
例えば新井氏は次のように述べている。
10.伊藤さんも紅野さんも、あまりに「契約書」を軽んじています。契約書を読めるかどうかで「命をつなげるか」や「自分を守れるか」が直接左右されます。
— 新井紀子/ Noriko Arai (@noricoco) February 1, 2019
憲法は当然のこと、必要に応じて生活保護を申請し、AV強要契約を拒否できるか、そのための基礎読解力は、生徒にとってライフラインです。
しかし、今回の共通テストの第2回試行調査のみならず、第1回試行調査もそうだが、これらの国語問題で出題されている契約書や条文に関する出題は、現実には、上で言及されているような方向性とは逆の「隠れたカリキュラム」を持っている。たとえ試験時間が100分に増えたとしても、記述式+複数テキストの問題という形式では、多くの受検者にとって時間的な負担はむしろ増すだろう。生徒会規約や著作権法の条文を頭から一つ一つ読んでいくのでは時間が足りない受験者も多いに違いない。そういう傾向が強まると、「規約や条文は最初から読む必要はない。むしろ設問を先に読んで必要なところだけ読めば十分」という方向へ流れがちになる。そうすれば得点でき、そうしなければ得点できない学力層の受検者は決して少なくないというのが現実である。この学力層の受検者に上のような間違った方向へ進ませないように出題者側は出題内容について十分に意を尽くすべきだし、いわんや助長するようなやり方は間違っている。
新共通テスト 第2回試行調査 第一問 問三についてもひとこと
第一問は、「指さし」に関する3つの文章が与えられ、記述式の設問に答えるものであった。記述式問題の、特に採点の余りの酷さは徹底的に批判されるべき代物であったが、私は、実は問三にも非常に大きな問題が潜んでいると考えている。
問三は、川添愛氏の文章から、レストランのメニューを例に、「指さされたものが、話して示したいものと同一視できないケース」について、なぜ「同一視できないケース」でも「話し手が示したいもの」を理解できるのか、一定の条件に従って記述するものであった。しかし、そもそも川添氏の文章は、人工知能の意図理解をめぐって書かれた文章であり、問題で参照せよと指示された「文章I」と「文章II」は、いずれも「ヒトの成長段階における指さし行動と言語習得の関わり」について述べられた文章であった。出題者は、
【文章I】と【文章II】に記された「指さし」の特徴から、なぜ「同一視できないケース」でも「話し手が示したいもの」を理解できるのか
と問うている*4。しかし、文章Iや文章IIに書かれていることと、川添氏の文章に書かれていることとは、少なくとも明確に状況が異なっており、それらの間に関係があると主張しているのは、出題者である。文章Iや文章IIには、「同一視できないケース」でも「話し手が示したいもの」を理解できるのかということを根拠づける確証と呼べる記述は何もない。この問三は、3つの文章の筆者たちの議論を飛び越えて、出題者の解釈や読みが、「まことさん」なる架空の人物を通して問われていることになる。正答であることを保証するのは、本文ではなく、出題者がそう言っているということだけだ。これは、本文理解よりも出題者の意図を理解することがあまりにも全面化してしまっており、試験問題としての妥当性を大きく損ねている。
まとめ-論理国語を推進したい人たちこそ共通テストの国語問題はまずいと言うべき
冒頭のツイートで新井紀子氏は、「論理国語」の導入に反対する人たちが、モデル問題例の「駐輪場の契約」の話ばかりを持ち出すこと*5を批判し、第2回試行調査の国語第二問は「国語として妥当」と評価し、都合が悪く「ないことにしたい」のだろうと底意を推測している。
しかし、本記事で見てきたように、実際には、第2回試行調査の第二問こそ、出題者のかなり恣意的な読みを受け入れることを事実上強要し、問題文中には明示的な根拠のない内容を問い、しかも、契約書や条文などをまともに読まなくてもよいという「隠れたカリキュラム」を助長している。「論理国語」という科目の可能性を高く評価する人たちこそ、現状の共通テスト(や全国学力調査も含めた)国語問題は、内容的にも試験問題的にも非常にまずいと批判するべきだ*6。「論理国語」を薦めたい人たちこそ、複数テキストの問題を安易に称揚せず、一つの文章における筆者の主張を「正しく」分析することをもっと強く主張するべきだと考える。
*1:以下のツイートには、駐車場の契約の問題が第1回試行調査の問題とあるが、誤り。駐車場の契約の問題は、新共通テスト記述式のモデル問題例である。そして駐車場ではなく駐輪場の契約だ。
*2:論理国語なる科目に期待する人たちはもちろん少なくないのだと思うが、その人たちが科目としての実体をどうとらえ、どのような内容を期待しているのかがはっきりしていないように思う。初等的な論理学を教えることを期待したり、模擬裁判のような試みを支持する人もいる一方で、、SDGsの17の目標の中から「自分事」として捉え行動に移せる課題を選んで課題解決のための手立てを考えさせるというような良く分からない試みを提案する人もいる。現行の現代文Bに比べれば文学作品は明らかに排除されそうだが、評論文の取扱いがどうなるかは不透明である。しかし少なくとも定番とみなされてきた評論のウェイトは低下するであろうし、随筆に近い文章が扱える可能性も大きく減ることは間違いないように見える。論理国語の科目としての実態が見えにくいことにも大きな懸念がある。
*3:また、そもそも私大を中心に、すでに多くの国語問題でも、正答とみなしうる範囲からかなり大きく外れている出題例があるという指摘もあり、私もそのことには同意する。ただし、一つの大学が自らの大学の責任でもって出題委員を選定し、その出題者たちの合意のもとで、その大学を受ける受験生に出題するのと、大学受験を希望する高校生全体を対象とした共通テストとでは意味合いが大きく違ってくる。
*4:実際には。「まことさん」なる素性の分からない人物が、考えをまとめることにしたとあり、「どのようにまとめたと考えられるか」を書く。詳しくは論じないが、少なくとも私個人は、このような出題形式は非常に奇妙なものにうつる。うがった見方だが、出題者がどのような誤読をし、またどのような偏った見方に誘導しようとも、それは「まことさん」なる架空の人物が行っていることであると設定することで、誤読や偏った誘導の責任を「まことさん」に転嫁しているとさえ言いたくなる。
*5:批判の一面として、契約書のことばかりが具体例で取り上げられる状況には問題があるという点には私も同意する。「論理国語」と「文学国語」に関する問題はもっと広い視座で論じられるべきだ。
*6:新井氏は、論理国語反対主義者を「やり方が汚い」とか「ないことにしたい」のだろうなどと批判し、朝日の天声人語は、問題を見ずに「評論」を書いていると批判している。しかし、そんな新井氏こそ、本当に問題を見て検討したのか。もしそうなのだとしたら、「新井氏の考える論理国語」こそ底の浅い危うい代物なのではないかという懸念が生じる。