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2016年12月14日付産経社説を批判する。

産経新聞 新共通テスト 教育 大学入試センター 大学 入試

産経新聞は2016年12月14日付の社説で、「記述式の入試 人材育てる労を惜しむな」と題する記事を掲載した。

現実の国立大学の二次試験がどのような形式で実施されているかを全く調べず、大学教員に不当な非難を浴びせる極めて悪質な記事であると言わざるを得ない。

産経社説のこの論調は、2016年9月11日付の社説から一貫しており、本ブログでも、既に批判した。

以下、2016年12月14日付の社説について具体的な記述を批判する。

 

記述式試験の実態に対する無知

すでに本ブログでは、

において、新聞各紙が「記述式」の意味を拡大解釈し、国公立大学二次試験の実態を不当に歪めていることを批判した。

今回の産経社説も全く同じ誤りを犯し、国公立大学の二次試験における記述式試験についての実態をミスリードしている。それは冒頭から顕著にあらわれている。

ようやく国立大学の入試で記述式が重視されることになった。

 まったく違う。

国公立大学の二次試験では、英語・数学・国語・理科・社会の主要五教科において、概ね記述式中心か、一定字数の記述式問題が課されている。「ようやく」などという記述は事実誤認である。

センター試験は私大を含め利用大学が増え、定着してきた。その一方、大学によってはセンター試験に頼りすぎ、個別試験で手を抜いていなかったか。

 現行センター試験は選択で答えるマークシート方式だ。前身の共通1次試験時代から「考える力が育たない」と批判があった。

 ならば各大学の試験で記述式を重視すべきだが、現在、国立大2次試験で記述式を課しているのは募集人員の4割にとどまるという。寂しい限りである。

 この記述が誤りであることは既に当ブログで指摘した。高大接続改革の進捗状況に関する文部科学省の文書では、「国語・小論文・総合問題のいずれか一つ以上を課している」のが募集人員の4割だという資料が付けられている。これは「記述式試験」と拡大解釈することは明白な誤りである。この定義では、およそほとんどの理系国公立大学が記述式試験を課されていないことになる。例えば、国公立二次試験で書かれている数学はほとんどすべての大学で記述式である。

 

「個別試験で手を抜く」というのも不当な言いがかりである。国公立理系では、前期日程で概ね英・数の2科目、大学によっては理科の記述式試験が課され、文系国公立では概ね英・国の2科目、大学によっては社会の記述式試験が現実に課されている。後期日程では、試験科目は多少減る大学もあるし、総合問題のような形をとる大学もある。また一部推薦入試の仕組みなどもある。しかし、概ね国公立大学の二次試験では記述式試験が課されているのである。

 

大学教員に対する不当な非難

上で触れた「個別試験で手を抜いている」というのも不当だが、

どんな学生を採り、育てていくかは大学教育の重要な仕事であるはずだ。記述式は採点の負担が増えるといった考えがあるなら、おかしい。

 それとも、受験生の文章の良しあしが見極められないほど大学教員のレベルは低いのか。面接など筆記試験では測れない受験生の能力を多面的に評価することも課題だが、記述式の採点を厭(いと)うような教授らに教育を任せられるか。

 という記述も不当である。大学教員は既に「記述式試験」の採点をしているのである。2月と3月に多くの大学教員が缶詰になって採点作業をしているはずだ。すでに十分負担をしている。どのような学生を選抜するかは大学にとっても大学教員にとっても重要なミッションのひとつである。既に十二分に責任を果たしているのである。採点という作業は確かに労力のかかる仕事である。しかし多くの国公立大学の教員は、記述式試験の採点に労力がかかるからと言って、マークシート式のセンター試験のみで合格を判定したいなどとは考えていないだろう。自分たちの指導する学生を自分たちの手で見極める作業は、たとえ労力がかかったとしても必要不可欠な作業であると自覚しているはずだ。

 

議論の射程の曖昧さ

 大学入試の実態を正確に知らないから議論がぶれるのである。

センター試験は私大を含め利用大学が増え、定着してきた。その一方、大学によってはセンター試験に頼りすぎ、個別試験で手を抜いていなかったか。

 とあるが、議論を国公立大学の話に限定するのか、私立大学の話まで広げるのかで、議論の内容そのものが全く変わってくる。センター試験の成績のみで判定する入試形式を採用しているのは、国公立大学ではなく多くの私立大学である。もちろん私立大学でも自前の入試を行っている大学も多くある。

他方で私立大学は、様々な事情から入試の複線化を行い、入試日程を増やしてきている。一つの大学や学部が複数の形式で入試を行うとそのための個別問題をすべての科目でしかもミスが起こらない正確な問題を用意し、それを採点するのは、時間と人員が必要になる。私立大学の場合、常勤教員だけで人員を確保するのが難しかったり、日程的に合格発表までの期間に採点に充てられる時間が限られていることもあって記述式問題の採点をしきれない大学もあるだろう。これは、傍から見ると大学教員がサボっているように見えるのかもしれないが実態は全く逆である。過密な入試スケジュールの中では到底時間を確保できないというべきである。

しかしこうしたことはさしあたって国公立大学とは別の話である。国公立大学は記述式試験を実施し、時間をかけてその採点を行っている。

受験方式について十分な理解がないから記述が曖昧になるのである。

これを機会に、受験科目が少ない入試も見直したい。昭和54年導入の共通1次は当初、5教科7科目を課していた。センター試験では大学が必要な試験科目を選ぶ形に変わり、科目が少ない大学が増えた。物理を知らない理工学部生など、基礎知識を持たずに入学する学生の増加を生んでいる。

ここでも国公立大学の話がしたいのか、私立大学の話まで含めるのかでまったく議論が変わる。しかもこれはセンター試験の話をしたいのか二次試験の話をしたいのかでも変わる。

センター試験の場合、「5教科7科目」というのは、英・数・国・理科2科目・社会2科目のことだ。理系国公立大学でも社会2科目を課す大学はほとんどないし文系で理科2科目を課す大学もほとんどない。理系国公立でも理科1科目で良いところは多少ある。文系国公立でも社会1科目で良いところは多少ある。しかし、概ね英・数・国・理・社の5科目は課されているはずだ。つまり国公立大学の場合、「5教科7科目」とは言わなくても、概ね5教科の科目が課されている。「科目の少ない大学」というのは概ね私立大学の話である。

他方、二次試験では、すべての科目が課されているとは限らない。国公立でも上位校は理科2科目や社会2科目を課すところもあるが、学科によって学科の内容に関連する専門科目しか課さない大学もある。(それでも記述式という前提は崩れない。)「物理を知らない理工学部生」という話がどのような実例に基づいているのか、この文章だけからでは到底わからないが、たとえばセンターでも二次でも化学だけで合格できる国公立大学もあるだろう。二次試験の科目をもっと増やすべきだというのならそれはそれで一定の理解は可能だが、志願者の全体的な概況などによっても何を課すのが良いかは変わりうるので一概には言いにくい。例えば受験生には科目が多いことを嫌う傾向が一定程度あるので、科目を増やすと成績上位者まで科目の少ない大学へ流れ、結果として科目を増やした大学の入学者のレベルが下がることも残念ながらある。現在の入試実態では、科目を増やせばその科目についての基礎知識を兼ね備えた人材が選抜できるという考え方はかなり危うい、と言わざるを得ない。

 

記述式試験の内容を知らないから内容が曖昧になるのである。

受験生の文章の良しあしが見極められないほど大学教員のレベルは低いのか。

国公立大学二次試験における記述式試験は、英・数・国・理・社の主要五科目で実施されている。そこで問われているのは「文章の良しあし」などという曖昧なものではない。英語ならば英訳・和訳・内容理解、国語ならば課題文の内容把握とその表現、数学ならば与えられた問題に対する発想とそれを裏付ける根拠記述、理科ならば様々な法則に基づいた問題解決や与えられた実験に対する考察理解、社会ならば与えられた課題に対する過不足のない正確な記述などである。単なる「文章の良しあし」などではない、多様な問題群に対する適切な応答が二次試験において記述式試験として課されている。

いわゆる小論文のような試験は大学入試において決して主流ではない。小論文でさえ単なる「文章の良しあし」を判定しているわけではないだろうが。

十分に検討していないから記述が揺れるのである。

新共通テストの国語と数学で記述式問題を加えることが検討されているが、受験者が数十万人規模になるため採点時間などの問題点があった。80字以内といった短文なら可能だとしても、それ以上の長文の記述式は2次試験に任せる方が現実的だろう。

 産経新聞の社説は9月11日に、

記述式の採点には時間がかかるという課題に対し、受験先の大学が採点する案は現実的だろう。

と述べていた。この時点ではどのような方法になるかははっきりと表明されていなかったとはいえ、この社説の執筆者は、80字の記述式も大学に採点させ、しかも長文の記述式も2次試験で扱うのが「現実的」と言うのだろうか。すべて短文であろうと長文であろうとすべて2次試験にゆだねればよい。今の2次試験がそれそのものである。