【新共通テスト記述式】再び氏岡真弓氏を批判する

これまでの経過と本記事の内容

2016年9月2日付の朝日新聞に2つの記事が掲載された。

である。後者は、このブログで一貫して批判してきた教育社説担当の編集委員 氏岡真弓氏による署名記事である。前者は署名記事ではないが、教育に関する社説である以上、氏岡氏がその内容に関わっていると考えられる。今回はこの2つの記事のうち、社説の内容について批判する。

 社説の記事は、文部科学省が公開した次の文書に関連している。

 後者の記事は、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会がまとめた

である。これは大部にわたっており、私はすべてに目を通したわけではない。

 

なお、過去にこのブログで氏岡真弓氏の記事について批判したものは以下の2つである。

 


相変わらず具体的な案が提示されているとするミスリード

文部科学省が公開した「 高大接続改革の進捗状況について」という文書の報道に関しては、この社説と同じ9月2日に読売新聞の社説も取り上げている。内容的には読売新聞の社説は朝日新聞のこの社説に比べるとさらに酷く、粗雑な内容であった。そのことは次の記事で批判した。

この読売社説に比べると、朝日新聞の社説は、やや穏やかな記述で始まっている。

新しい試験の具体像を早く示し、オープンに議論すべきだ。

 大学入試センター試験に代わって2020年度に始める共通テストについて、文部科学省が検討状況の中間発表をした。

 読売新聞の社説が「大学入試センター試験に代わり、2020年度から導入される新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」について、文部科学省が大学・高校関係者と検討してきた具体的な実施案を公表した。」と明らかにミスリードする記述をしていることに比べれば、この記述は「進捗状況について」と題する文部科学省の文書に沿っていると言える。

しかし、

入試改革の議論は迷走を続けてきたが、今回示されたのは、これまでよりは実現可能性のある案といえる。

と続く。相変わらずである。今回の文書では、何らの具体的な案を示し、これで実施すると結論付けているわけではない。p.12の記述はこうだ。

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3つの案のどれを採用するとも決めていない以上、今回の文書が、これまでよりもは実現可能性のある案を提示したとする記述は一面的である。実施方法は現状何も確定していないと言わざるを得ない。

 

一つは記述式問題の導入について、受験生の出願先の各大学が採点する案である。

 文科省が考えていたのは試験を12月に前倒しする案や、マークシート式とともに1月に実施する案だった。

 だが高校教育への影響が大きかったり、採点期間が短く短文で答える問題しか出せなかったりして出口が見えなかった。

 それに対して今回の案は各大学の2次試験の合格発表までに採点すればよく、時間の余裕が生まれ、出題の幅が広がる。

 ただ、これにも課題がある。どこまでの大学が採点の負担を受け入れて利用するか。国公立だけでなく私立や短大も含め、どう対応できるかだ。

 まだ3つの案が併記された状態であるにもかかわらず、この記述はあたかも今回の文書では3つ目の案だけが提示されているかのような書きぶりだ。

これまで指摘し批判してきたように、氏岡真弓氏は8月19日の記事から一貫して、文科省は大学側が採点を行う案で進めるとしている、という情報を発信し続けている。公表されている文書の内容とは異なる情報発信を続けていることになり、この点は極めて重大で悪質なミスリードだと言わざるを得ない。

 

作問の方向性について十分に資料を検討しているとは思われない

 

前提となるのがセンターがどんな問題を出し、大学の採点の負担をどう軽くできるかだ。文科省は相当数の問題例を公表し議論の土台を示してほしい。

 もう一つは英語の「聞く、話す、読む、書く」の4技能をめぐり、センターと民間の試験を合わせて評価する案だ。将来は民間への一本化を目指す。

 数十万人が一斉に受ける試験で、センターが「話す」「書く」力を測るには限界がある。

 かといって、どの民間試験でもよいわけではない。学習指導要領をふまえているか、受験料は適正かといった基準を設けるというが、中身によってテストの質が左右されよう。文科省は具体的な基準を示すべきだ。

 生徒が高得点を目指し何度も受験し、高校生活が試験漬けになる恐れがある。経済的な余裕のない家庭の子は何度も受けられず、豊かな家の子との間に不平等が生まれる可能性もある。

 いずれも対策が欠かせない。

 そうした検討の素材が示されて初めて、記述式や4技能試験をそもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる。

 これらの記述にはいくつかの問題があるが、それらを端的にまとめると、具体例を示せという要求が空疎なものにしか聞こえないということだ。どのような対象者に、どのような内容で、どのような技能を、どのような問題として問うか、ということの大枠がなければ、問題例など作りようがない。にも関わらず、社説は「相当数の問題例」が示されて初めて「記述式や4技能試験をそもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる」と述べている。共通試験で何を問うかという大枠を確定させることなく先に問題例を公開することなど無理な要求だ。しかもこのような記述は、今回の「進捗状況について」という文書の中に記載されている内容を十分に精査しているとは到底思えない。

 たとえば国語の記述式問題を扱った部分では、まず問題を考える思考のプロセスを図式化した上で

国語の問題として解答させる内容としては、以下の4種類に大別できる。
[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題
[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題
[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題
[4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題

と整理し、さらに、

 大学入学者選抜においては、これまでは、「テクストの内容(筆者の考えなど)を説明する問題」が中心であったが、今後は、「テクストの内容を基に考えを文章化する問題」を導入することが重要である。


 これまでの大学入学者選抜等における国語の記述式問題を分析すると、「[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題」や、テクストを要約したり、共通点・相違点をまとめたりするなどの「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」が中心となっている。
これに対し、考えたことを文章により表現する「[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」は、散見される程度となっている。
他方、「[4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題」は、テクストから得た情報を既有の知識・経験等に統合することなどにより、自分の考えを論じるものであることから、小論文などの解答の自由度の高い記述式として出題されている。(解答の自由度の高さから、個別選抜に馴染みやすい)


 これらを踏まえ、共通テストの国語の記述式においては、「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」だけでなく、「[3]テクストの全体的な精査・解釈
によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」を条件付記述式として出題することを想定している。
このことにより、「精査・解釈」に関わる資質・能力(例えば、論理(情報と情報の関係性)の吟味など)だけでなく、「考えの形成・深化」に関わる「情報を編集・操作する力」をよりよく評価する作問に取り組むこととする。

 と述べている。しかも別紙には次のような図が付けられており、試験で問う能力を分析している。

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これらの点では、今回の文書の中で一定の方向付けが示されていると言ってよいだろう。今回の朝日社説は、実施方法という具体案の決まっていないことをあたかも具体的な案が決まっているかのように述べる一方で、出題の内容については少なくともたたき台が示され一定の方向付けがなされているのに、そこにはあたかも具体的な案が何もないかのような記述を行っている。

文科省の文書の疵

文科省の文書に瑕疵がないわけではない。というよりも、文科省の文書も「考え」という観点についての記述があいまいで揺れているように思われる。そこを勝手に独断してしまうと、氏岡氏がかつて書いていたような

「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」

 というさらにミスリードするような記述が出てくる。このようなミスリードが生じる第一義の責任はあいまいな文章を書く文科省側にあるが、本来曖昧な部分はその曖昧さを指摘し、そこでこそ具体例などを用いてその曖昧さを除去するように努めるのが情報発信者のするべきことであって、曖昧な部分を自分流に解釈して記述してしまえばさらに議論を混乱させてしまうことになる。

 

私がここで文科省の文書があいまいであると考えている点を一言で言えば、[2]と[3]と[4]の切り分けが曖昧だということである。

第一に「考え」ということの示す範囲が不明瞭だ。

「テクストの内容(筆者の考えなど)を説明する問題」が中心であったが、今後は、「テクストの内容を基に考えを文章化する問題」を導入することが重要

 としつつ

 [4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題

 は個別入試になじむとする整合性の問題である。

例えば別紙の図では、[4]について

  • テクストにおける筆者の主張を踏まえつつ、自分の考えを形成して論じる
  • テクストに示された図表等の情報を分析した上で、仮説を立てて、自分の考えを論じる
  • テクストの論旨を踏まえて、既有知識・経験を具体的に挙げながら、自分の考えを論じる
  • テクストを踏まえて、テクストと自分自身との関わりについて考えたり、想像したりして、自分の考えを形成して論じる
  • テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して、考えを形成し深める
  • (テクストの情報を用いつつ、)自分の考えを論じる

という項目が掲げられ、[3]では

  • テクスト全体の論旨を把握し、推論による内容の補足をして、筆者の主張について論じる
  • テクスト全体の論旨を把握し、既有知識や経験による内容の精緻化を行って論じる
  • テクスト全体の論旨を把握し、目的に応じて必要な情報を付加、統合して比較したり、関連づけたりして論じる
  • 複数のテクストの妥当性を吟味し、情報を統合・構造化して論じる
  • テクストの全体的に把握・理解し、精査・解釈を踏まえて、情報を編集・操作して、考えを形成し深める
  • テクストの情報を多角的・多面的に精査し構造化したり、構成・表現形式を評価したりする等の精査・解釈によって得られた情報を操作・編集し、テクストの内容を説明する

という項目があげられており、[3],[4]いずれも「考えを文章化する問題」と括られている。この「考えを文章化」という記述と「自分の考えとの統合」という記述は何が違うのか、である。具体的な項目を見ると違うようにみえるが括り方との整合性が曖昧である。

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この図では、[3]と[4]を分けるのは「テキスト内の情報の編集・操作」か「テキスト外の情報との統合・構造化」の違いであるが、この違いは非常にわかりにくい。

また、p.39の大学入学者選抜改革推進委託事業のひとつを説明する図の中で、「国語問題の内容のイメージ例」の中に

文章や図表等の内容を踏まえ、自説を展開する 

 というような文言も入っている。これも前段の整理との整合性がはっきりせず不用意であったと言わざるを得ない。

 

第二の問題点は、実際上[2]と[3]の違いも実ははっきりしないことにある。[2]については

  • テクストにおける筆者の主張とその主張の理由・根拠を説明する
  • テクストに表現された事物について、目的・場面・文脈・状況等を説明する
  • テクストの会話や表現等に着目して、登場人物の心情の変化等を説明する
  • テクストを通じて対比されている事項について考察し、共通点や相違点について説明する
  • 目的に応じてテクスト全体を要約し、論旨に沿って説明する
  • テクストを全体的に把握・理解して、精査・解釈を行う
  • テクストに示された情報と情報の関係性を吟味する等、精査・解釈して答える

が挙げられている。確かに文章上は「説明する・解釈する」と「論じる・考えを形成する」という違いがある。しかし、実際にどのような問題が両者の違いなのかはっきりしない。これはこの文書の中で

これまでの大学入学者選抜等における国語の記述式問題を分析すると、「[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題」や、テクストを要約したり、共通点・相違点をまとめたりするなどの「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」が中心

これに対し、考えたことを文章により表現する「[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」は、散見される程度

 と述べている以上、これまでの大学入試の国語記述式問題で判断できる。つまりここでは(新たな問題例ではなく)実際の入試問題が例として挙げられるべきだった。

記事を書くためにするべきこと

文科省の文書を十分検討すれば、どの部分が曖昧で、その曖昧な部分をより明確化するためにはどのような補足情報が必要かわかるはずである。単に「文科省は相当数の問題例を公開せよ」などという要求をしても空疎なだけである。文科省の文書では、具体的な項目を設定して、共通試験で問うべき内容は明示している。その内容をより明らかにする具体例を求めるべきであった。

ここを明確にせず曖昧なまま放置して文章を書いてしまうから、氏岡氏の文章にある

「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」

のようなさらに曖昧な言説になってしまうのである。あるいは社説にあるような「相当数の問題例の公開」の後に「そもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる」という順序の逆転した記述になってしまうのである。

 

自らのミスリードを棚に上げて公開を求める不誠実さ

この節で、私は、今回の社説も氏岡真弓氏が主導して記述を行っているという前提で議論する。

 とある以上、氏岡氏はこの社説の執筆に関与しているとみてよいと思うが、もし氏岡氏がこの記事に全く関与していないなら、以下のいくつかの記述は撤回する用意がある。

 朝日社説は、次のように述べて社説を締めくくっている。

経過がわからないまま結論を出されても納得はえられまい。

 高校や大学、保護者、そして生徒にこたえるためにも、議論を公開すべきである。

 私は、過去の記事で、氏岡真弓氏が、8月19日に極めて不可解な形で「大学側が採点する方法」について報道し、あたかもこの方法が既定路線であるかのようにミスリードすることによって、結果的に問題の多い方法の採用を後押しすることになっているのではないかと批判した。しかも国立大学協会の「論点整理」が出た後になってもなお、この方法が有効であることを「論点整理」の内容を十分に記述しないまま情報発信し続けたことも批判した。さらに氏岡氏の「記述式試験」に関する識見や調査に不十分さがあることも指摘した。これらを通じて、私は氏岡氏が8月19日の記事の記事化の経緯と「記述式試験」の内容に関する解釈について、説明するべきだと述べた。今回の社説の記事においてもなお、ここまでに行われたミスリードに関する修正も行われていないし、公表された文書を十分に検討したと思われない不正確な記述があることを上で指摘した。

氏岡氏こそ、今回の一連の報道や記述の内容について説明するべき責任があると考える。それを棚上げにして、文科省の会議の公開を求めるのは不誠実だ。

「経過がわからないまま結論を出されても」と言うが、そもそも今回の「進捗状況」の文書を詳細に検討すれば、どのようなことが検討され、新共通テストで何を問おうと考えているのかかなりの分量で記載がある。まずその内容を正確に把握し報じるべきだ。少なくともこの社説のような文章を書いてしまうのでは、公表された文書すらまともに読めないということを自ら示してしまっている。このような文章を書く人にいくら情報提供しても正確な理解は得られないと通常は判断する。

そして上のツイッターのつぶやきである。

生徒、保護者、高校、大学は不安を抱えている。会議は公開を。

この間の一連の報道で、大学関係者に不安を抱かせているのは氏岡氏の署名記事に端を発する、大学側が採点する方法があたかも決定事項であるかのような報道にある。不安を煽っているのはほかならぬ氏岡氏自身である。

私は、このような自分の行ったことを棚に上げ、あたかも文科省の対応が「不安」の原因であるかのような書き方は卑怯であると言わざるを得ない。報道に携わる者は、自分の報道が一般社会での一定の議論の方向性や見方を決定づけてしまうことにもっと自覚的でなければならないと思う。私は少なくとも氏岡氏はこの話題に関して情報発信を行う者としての適格さを欠いているのではないかと考えている。