80字で測れることは何か?

新共通テストに関して、国大協が「記述式は不要」という見解を出したという一部報道(その後国大協側は否定)があった。

News Picsというサイトでは、この記事に関してこんなコメントが付いている。上の方から順番にいくつかを抜き出してみる。

西田 亮介  東京工業大学 准教授

メンツと落とし所の問題なのだろうけど、もはやここまでくれば新テスト国語に記述式必要ないのでは。80文字以下って、Tweet以下ですよ…。

 

早崎 公威 忠北大学 天文宇宙科学科 助教

文科省が、解答文字数として80文字超と80文字以下の二つの問題を出題する提案をしたとあるが、そもそも80文字という基準は何を根拠にしているのだろうか。少なくとも学力を測定するのに十分な文字数であるとは言えないだろうし、採点コストを考えてのことなら、記述式テストの導入は現実的ではない。

 

Mori Riku 次世代グローバル政策研究フォーラム 代表
「80字を超えるものは実施不要」というのなら、従来のマーク方式から変更する必要はない。字数制限80字の記述問題で何が図れるというのだろう。採点者の負担が増えるだけ。

 

塩本 高之 恵寿総合病院 臨床検査技師
思考と知識、大学で学問をする上でどちらも大切です。しかしながら、知識は後付けしやすい、ググればわかる、ということを考えると、やはり思考をとるべきなのかなと思います。(採点コストは考えず)その観点から考えると、まず記述問題はやはり必要なのではないでしょうか。
ではどの程度の文量が必要か、ということになりますが、そこは詳しくないのでわかりません。少なくとも80字の小論文問題に遭遇したことはありません。(子供の日記じゃあるまいし……)

 

中村 卓 学力工房 代表
そ・ん・な・の、無意味!まず、採点ならば、外部(例えばBenesseなど)で今現在、全国規模の記述の採点をしている業者があるわけですから、自前主義を捨てれば、出来るんです。字数なんか関係ない。これを考えている人は、自分たちの狭い了見だけで考えていて、この日本、世界で現在行われている実際のオペレーションを何も見ていない。所詮、見かけの変化を出すためだけにやるならば、大いなる無駄、なので、今のままでいいです。話にならないレベル。80字なんて、小5でも書きます。普通に。

 

Ichino Misato 編集者/元教師/東京大学大学院 情報学環 在学中

①最初の設定で、なぜ80文字を基準にしたんでしょうか。
AIで採点できそうな文字数だから?
過去の何かの実績から?
80文字って、論理力ではなくて、定型の文を書けるかどうかになってしまうのではと思います。

②80文字が不要という理由は?
議論の過程を見せてくれないと、何なのか理解できないです。

国語がそうなると、他教科にも影響してくるので、本当に早く決めてください...。

 

石川 健 株式会社エディトリアルハウス 代表

記述式問題の導入は良しとしても、出題側の都合が優先されているような感じです。記述による解答が80文字以内とは、意味合いを逸脱しております。簡潔明瞭に記述することは必要ですが、80文字で何を表現できるのでしょう。

 

Matsunaga Masaki 九州大学 QREC 特任准教授

そんなもん「記述」と言わん(苦笑)。がっつりエッセイ・面接できないんだったら、信頼性妥当性が担保されたペーパーテストにしましょうよ。

 

榊 礼武 自営業 事業主

tweetより短いってどうよ。こんな試験の為に頑張っている学生が可哀そうで残念です。論理的思考に基づく長文記述こそ、社会に出たときに役立つスキルなのに。でも、1次試験だから、記述要らないのか。だったらマークシートのみでいいんじゃないの?

 こういうコメントをする人は、実際の国公立大学の二次試験がどのような形式で実施されているかということについてほとんど何も知らないのではないだろうか。一度、河合塾なり駿台なり代ゼミなりの入試速報サイトに行って、実際にどういう問題が出題されているのか調べてから発言した方が良い。

 

例えば、東大の国語の試験第一問は文理共通の問題だが、1個1個の小問は、おおよそ60字~80字前後の字数でしか記述できない形式である。最も字数の多い設問でさえ120字。ツイッターの140字よりも長い記述を求める設問はない。京都大学の国語第一問でも、小問ひとつひとつは概ね100字~120字程度の記述である。

 

ではこのひとつひとつの小問、特に東大現代文第一問の小問1個では、思考力・表現力はなにも測れないというのであろうか。課題文における筆者の主張の根拠を説明したり、筆者の主張の内容を説明する記述式問題において、80字というのはごく一般的かあるいは一般的な字数よりも少し少ない程度である。多くの現役生が最初に記述式模試を受けて十分に点数を取れないことが多いのは、無駄を削り、必要なことは漏らさず盛り込んで解答をまとめるという作業が、決して低いハードルではないことを意味している。これは、思考力や表現力を問うために十分に意味のある出題であると言えるだろう。そして実際に国公立の二次試験では、その範囲で的確な出題をする努力が重ねられ、実際大部分ではそうなっている。

 

問題なのは字数ではない。何を問うかである。そのことが十分に理解できていない人は、あまり安易な発言で議論を歪めないで頂きたいと思う。

 

 

 

記述式試験の採点は公平に行われている

記述式試験は公平でないという意見

現行の大学入試センター試験の後継として計画されている新共通テストでは、記述式の問題が出題され、民間業者への委託と大学教員による採点とが導入される方向で検討が進んでいる。

私は、少なくとも現状では、提案されている国語の問題例のような出題を各大学の教員に採点させる方式には反対である。記述式試験は現行通り二次試験で課されるべきであると考える。それらの理由は、最近の動向も含めて別の記事に書きたいと思う。

もちろん、高大接続システム改革会議での議論に見られるように、記述式問題を出題するべきだと考える論者も多いことは事実である。現行の大学入試センター試験のマーク式という方式に問題が多いと考える議論である。例えば、

「そこが聞きたい 新共通テストの狙い 安西祐一郎氏」(毎日新聞

http://mainichi.jp/articles/20160316/ddm/004/070/005000c

の中で安西祐一郎氏は、

現在のセンター試験のような多肢選択式のテストの場合、問題の解き方は与えられた選択肢の中から正解を一つ見つける、という方法になりがちです。すると、勉強の仕方もそれに合わせた形になってしまいます。例えば、国語の長文読解問題では、全文を読んで理解して解くのではなく、設問に関連した部分だけを読んで選択肢の中から正解を見つけるという傾向が成績上位層ほどある。明らかに誤った選択肢を除いていき、最後に残った選択肢を選ぶ、という解き方も見受けられます。

 これから労働生産性が低迷し、グローバル化が進むなど厳しい時代を生きていくためには、主体性を持って問題に取り組み、文章を書いたり図を描いたりして自ら答えを見つける総合力が求められる。そうした力は「大学の個別入試でみればいい」という指摘もあるが、国の共通テストでやることに意味があります。

 と述べており、記述式導入を訴える多くの論者の議論の共通部分はこうした認識だと思われる。この認識そのものが妥当かどうかについてはここでは触れない*1

ここで取り上げたいのは、記述式という方式に関して、むしろ「公平性が損なわれる」といった反対意見が語られることである。

 

この記事に、Newspicksというサイトで寄せられたコメントの中に次のようなものがある。

高橋 孝輔 新潟県アメリカンフットボール協会 理事
センター試験の受験者数は56万人。

例えば採点を15営業日で終わらせないといけないとする。
受験者1人の採点時間を10分とする。

さて、何人の採点者が必要でしょうか?

1日8時間として計算すると、777人。

777通りの採点基準。

 

堀 義人 グロービス経営大学院 学長 グロービス・キャピタル 代表パートナー

記述式の問題点は、採点者の主観に左右されバラツキが生まれ、不公平感があるところだ。一層の事AIに採点させたらよい。そっちの方が、不公平感は無い。グロービスは、入学願書とレポートの一次採点をAIにすることを検討中。

 

MINOWA MAKOTO 創医塾京都 塾長

採点実務で最も重要(受験生にとって)なのは採点基準です。
絶対、必ずばらつきます。全国55万人以上が受験するのです。そして全国の採点者の所属組織もバックグラウンドも千差万別です。
やってやれないことはない、と押し切って思いもよらない不利益を被るのは受験生です。

というようなコメントである。こうした人たちはさしあたって大学教員ではない人たちだが、中には大学教員であっても記述式試験が公平でないと主張する人もいる。

例えば、武蔵大学の教員である千田有紀氏が自身のツイッターで次のように発言している。

 

 

 

この2つのツイートでは「信用」という言葉が異なった意味で使用されている。前者では、採点者によって採点基準が違うがゆえに点数が異なることを信用できないといっており、後者では教員は採点ミスをするから信用できないといっている。前者は次節で述べるように通常ありえず、後者はどのような試験であれあってはならないことで、これも起らないように二重(以上)のチェックがかけられている。千田氏の発言は不当である。

 

実は上の安西氏のインタビューの中でも、次のような発言がある。(言わずもがなのことだが、安西氏はもともと慶応大学の教員であった人物である。)

−−記述式の採点はどうしますか。

 基本的には人が行います。文科省の試算では、受験者53万人分の解答用紙を1日800人で採点した場合、解答文字数が200〜300字の長文と80字以内の短文を組み合わせて計6問出題すると、最長で約2カ月かかる。短文記述式3問だと最長で25日程度です。コンピューター技術を活用するなど工夫次第で短縮できます。また、出題する時に「2段落構成で」などの条件をつければ、それをクリアしているものと、していないものを最初に選別することもできます。解答用紙を機械で読み込んで電子化し、似ている文章同士を集約して採点すれば、採点のばらつきも減らせるはずです。採点の労力を軽減するのに人工知能を使うことも考えられるでしょう。

 「採点の公平性が保たれるのか」という指摘がありますが、そもそも大学入試を受けるまでの段階で公平なのか考えてほしいと思います。家庭の所得格差が学歴格差の要因になっている。トップレベルの大学の入学者には高所得層の家庭の子どもが多いという状況もあります。そうした中で、新テストの記述式問題の採点部分だけを取り出して公平性を問うのは違和感を覚えます。機会均等の面から入学者選抜や評価に関する公平性をとらえる必要があります。

 つまり、安西氏も、記述式の採点の場合、採点がばらつくことがありうると考えていることになる。

 

現行の大学入試では、国公立の二次試験を中心に多くの国公立・私立の大学、幅広い科目で、記述式試験が実施されている。そうした状況において、上であげたようなコメントは、あたかもそれらの記述式試験の採点が公平性に欠けているかのような印象を与えるもので、非常に危険だ。

 記述式試験の採点は受験者間で公平である

同じ答案が採点者によって異なる評価を与えられるのではないか

 おそらく上にあげたようなコメントをする人は、次のように考えているのではないか、と思う。

  • ある試験問題の答案に対し、2人の採点者AとBがチームを組んで採点作業を行うとする。
  • 受験生Sの答案を採点者Aは満点とした。
  • 受験生Tの答案はSと全く同じ記述の答案であるにもかかわらず採点者Bは減点した。

このような状況が起きると受験生SとTの公平性が損なわれているということなる。

採点基準は厳密に統一されている

しかし、上で述べたような受験者間で採点に違いが出るということは通常ありえない

採点において採点基準を統一する以上、採点者Aと採点者Bの採点が同じ答案で異なることは起こりえないのである。

 

本ブログでは、前の記事で「PISAの落書き問題」を例に、記述式試験の採点のむずかしさについて論じた。


しかし実際に採点する際に、たとえば「落書きを正当化したかったので。」という回答を誤答とするという採点基準を決めたならば、採点者Aと採点者Bでその判断が食い違うことはありえない*2。受験者間での公平性は担保されている。

 

ちなみに、A・Bとは違う別の採点者甲と乙のチームがこの問題の採点を担当した場合、A・Bのチームと同じ採点基準になるとは限らない。例えば、A・Bのチームは「落書きを正当化したかったので。」を誤答とする採点基準で採点作業を行ったが、甲・乙のチームでは「落書きを正当化したかったので。」を正答とする採点基準で採点作業を行うことはあり得る。しかし一つの試験問題はひとつのチームが採点作業を行うのだから、同じ答案を書いた受験生の得点が採点者によって異なることはあり得ないのである。

 

奈良女子大の鴨浩靖氏は次のように言っている。

 この発言は厳密には少々勇み足の感もある。受験者数の多い学部や採点期間が短い大学など、答案を一人で採点できるとは限らない大学もそれなりにあると思われるからだ。また、答案の採点には、多くの場合採点者とチェック者がいるから、最低でも2人以上の眼で見ている。(予備校の模試などでも同様。)採点者とチェック者の間では採点基準を明確に言語化して伝達しあい、同じ採点者でも採点の揺れや見落としが起きないようにチェックしているはずだ。

重要なことは、国公立二次試験で課されている記述式試験の採点者は、各問題ごとに非常に少数で組織されており、採点基準は厳密に統一され、同じ内容の答案に異なる点数が付くという形で受験者間の公平性が損なわれることは通常ありえない、ということだ。

 採点基準は多様である

採点基準が偏っているのではないか

記述試験が公平でないという意見のもうひとつの側面は次のようなことではないか、と思う。

  • 採点チームが合議によって決定した採点基準には偏りがあるのではないか。

 上で述べたように、ひとつの試験で採点を行うチームは固定されているので、受験者間での不公平は通常生じない。しかし、別のチームが採点を行う場合に採点基準が変わりうるなら、そもそもそうした採点基準そのものが適切なのか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。

PISAの落書き問題」の場合、「落書きを正当化したかったので。」という回答を正答だと考える人から見ると、もしこれを誤答とする採点基準が採用されていたら、その採点基準は偏っていると考えるかもしれない。

また、問題の出し方によっては、上で述べたような合議によっても採点基準の統一化を図ることが難しく、採点者の主観的な判断に左右されやすいものもありうる。例えば、

「安保法制に賛成か、反対かいずれかの立場を選択してあなたの意見を1000字以内で述べよ」

 というような非常に雑駁な問題を出題すると、どのような内容の議論が論理的/説得力のある議論かを合議によって統一することはかなり難しいと予想される。反対の立場の採点者が賛成の立場の議論に「説得力」を認め得ない状況もありえる。逆も然り。このような問題だと採点者によって採点にばらつきが出ることを防ぎにくくなる。

 試験問題は十分検討されて作成されている

これらの観点は、一般論としては妥当かもしれないが、現実にはそうした懸念は通常無用である。

そもそも、大学入試で出題されている記述式試験においては、採点者の主観的な立場などが入り込む余地がないように事前に検討が行われているということである。国公立二次試験を中心に行われている記述式試験では、そもそも自らのコミットする主張について論じる形式の「小論文試験」は非常に稀である。理系科目では妥当な論述の枠が明確だが、文系科目でも、例えば国語なら課題文の読解が中心であり、英語でも課題文の内容把握や文法的な観点を重視した英作文が大部分である。地歴系の科目でも実際には問題文などで解答すべき内容と方向性を限定することが大半である。記述式試験では、事前に問題が十分に検討され、どのような答案が出てくるかも想定したうえで、正答に幅が出ないように調整されている。

つまり、「PISAの落書き問題」や「安保法制に賛成か、反対かいずれかの立場を選択してあなたの意見を1000字以内で述べよ」などという問題は、大学入試問題としては適切さを欠いた問題であり、現状の大学入試における記述式試験ではこうした問題の出題は通常ありえない。

小論文試験であったとしても、多くの場合は、課題文が掲げられ、その内容を要約したり、課題文の議論に自分の議論を対置させる形式を要求したり、あるいは解答字数を少なくして答案のぶれを抑えるなどの多くの工夫が行われている。

従って、通常の記述式試験において、採点者の主観に基づく採点基準の偏りが顕在化するような事例は起こりえないと考えてよい*3

 現実の入試における採点基準の多様さはもっと複雑である

 入試における採点は、確かに一面では受験生の到達度評価という意味を持っているが、現実的には、選抜という側面が重要である*4。満点や零点に成績分布が偏るような問題は、受験生を選抜する=差をつけるという目的から見ると適切ではない。逆に言えば、受験生の答案全体を見ながら差が付くように採点基準を決めていくことになる。

安田亨氏の著書の中に、東京工業大学のある入試問題では、「nに関する帰納法で証明する」と書いただけで、満点の1/3の加点があった、というエピソードが登場する*5。これを完全に真に受けてよいかどうかは別としても*6、現実の入試の採点基準は、実際に全受験生が書いた答案を見ながら作成される。

上で引用した鴨浩靖氏のツイートにも書かれているように、学部や専攻ごとに採点基準は変わりうる。ある試験問題について、X学部では全体的に出来が良く、別のY学部では全体的に出来が悪いということがありうる。また医学部系と理工系を同一問題で試験した場合には、総じて医学部系の方が出来が良い。こうした事情から、同一問題で試験が行われたとしても、2つのX学部とY学部で見た場合、出来具合を勘案して、X学部ではより厳しい採点基準、Y学部では少し緩い採点基準が採用されることがある。X学部では減点された答案と同じ答案がY学部では満点とされる場合もありえる。入試における採点はそもそも満点が一切の論理的瑕疵のないことと同義であるとは限らないのだ。

もちろん同一問題で実施されている試験で2つの学部を併願できない以上、X学部の受験生全体で受験者間は完全に公平、Y学部の受験生全体で見ても受験者間は完全に公平であることは言うまでもない。

 

このように、採点基準は、受験生の答案全体を見て、得点分布に差がつくように設定されるものであり、論理性や内容の適切性のみが唯一の基準というわけではない。従って、現実の入試における採点基準は、問題だけを見て唯一こうあるべきなどと論じられるものでは、そもそもないというべきである。受験者間での公平性が担保されていれば、採点基準そのものは学部や専攻ごとに柔軟に変えざるを得ないし、内容的な観点よりもむしろ差をつける観点の方が重要なくらいなのである。

 

まとめると、合議によって作成された採点基準が偏っているのではないか、との懸念には、

  • 通常採点基準が特定の採点者の主観に影響されるような形になる問題は出題されない。
  • 正答の幅が限定されるように十分検討されているため、偏った内容が正答とされるような採点基準にはなりにくい。
  • むしろ採点基準は、答案の間の得点差を付け受験生の選抜に資するようにするため、全受験生の出来具合に強く影響され、学部や専攻ごとに変更される。従って、問題だけを見て採点基準が偏っているなどと論じることにほとんど意味はない。

 とこたえることになる。

 

 

 

 

 

*1:例えば、国語の問題と成績上位者の解き方に関する議論は微妙であると思う。

*2:念のため注意しておくが、私が「落書き問題」を例に指摘したのは、採点基準を合議で決めるプロセスに時間がかかること、そして問題の質が悪いとその作業は非常に負担が大きくモチベーションが維持できないのではないか、という点であって、採点が不公平だということでは決してない。

*3:通常と書いているのは、現実には十分に内容の検討が行われていない出題などもあり得るためである。ここには直接的には書かないが、酷い事例もいくつか見聞きしている。

*4:これは予備校の模試と実際の入試の位置づけが全く違うことも意味している。

*5:『入試数学 伝説の良問100』講談社ブルーバックス p.69

*6:実際にどう採点されたかを知る術は私にはないので、安田氏の記述がすべて真実その通りかどうかはもちろんわからない。

【新共通テスト記述式】産経新聞9月11日付「主張」を批判する

9月11日付の産経新聞に「主張:大学入試改革 豊かな知識で学ぶ意欲を」と題された記事が掲載された。

私がこの記事に対して批判したいことは次の2点だ。

  • あたかも大学側が怠惰であるかのような不当な非難
  • 入試科目を増やすという提案に対する具体例の欠如

「論点整理」を無視して大学側だけを非難する不見識

大学入試はどう変わるのか。センター試験に代わる新テストの概要など入試改革の進捗(しんちょく)状況を文部科学省がまとめた。

 思考力や表現力を重視するあまり、知識軽視となっては「ゆとり教育」の二の舞いになる。各大学の個別試験を含め、しっかり学ぶ教育につなげてほしい。

 新テストで、国語と数学に記述式問題を加えることは評価できよう。センター試験の前身の共通1次試験時代から、マークシート方式に対し、「考える力が育たない」との批判があった。

 記述式の採点には時間がかかるという課題に対し、受験先の大学が採点する案は現実的だろう。大学の負担が増えると反対するのはおかしい。どんな学生を採り育てていくか、大学の責任は重い。採点が面倒だと考える大学教員がいるなら、意識を変えるべきだ。

 この記述の後半が産経記事の最大の問題点である。

まず第一に、記述式試験の採点を大学側が採点するという案を「現実的」と評価するなら、少なくとも、国立大学協会が「論点整理」の中で提示した問題点について明確な回答を与える(ことができる)べきだ。産経記事では、「負担」の問題についてだけ直後の文章で書いているが、それ以外の問題点がさまざまなに指摘されていることを結果として隠蔽している。この方式の問題点は、採点の負担だけではない。

国立大学協会の論点整理では、負担の問題以外に、本文中で、

  • 大学(学部)によって対応が分かれる可能性

が指摘されている。現在すでに記述式試験を2次試験で課している大学が新共通テストの記述式問題を選抜基準から外す可能性である。

さらに別紙の中で、次の9項目の課題・論点を示している。

新テストの共通試験としての性格
全ての問題を統一的に採点処理しなければ、共通試験としての性格が失われるのではないか。
センターによる採点基準の設定等
センターはどの程度の採点基準を示すのか。解答例や採点例まで示すのか。段階別表示の方法を含め、各大学における採点にどの程度の裁量を与えるのか。
センターによるクラスタリング等の前処理によって、各大学の負担はどの程度軽減されるのか。
センターで3段階程度の大まかな段階評価を行い、それをそのまま使うか、さらに詳細な評価を行うかは各大学に任せるというような制度設計はあり得るか。
各大学における採点
自ら作成したものではない試験問題について、出題意図や採点基準の的確な把握と採点者間の共通理解の下に、責任ある採点ができるか。結局、作問も各大学が行う方が良いということにならないか。
受験者が前期・後期など複数大学を受験する場合、同一答案について、大学により点数に差があっても問題はないか。
第1段階選抜、推薦入試・AO入試における新テストの結果の利用
各大学が第1段階選抜を実施する場合や推薦入試・AO入試において新テストの結果を利用する場合には、記述式以外の点数のみを利用することでよいか。
実現可能性・セキュリティの確保
新テストを受験した全受験生の中から、出願のあった各大学別に受験生の答案を整理・選別し送付すること等が物理的に可能なのか、また、送付する(複数大学に送ることもあり得る)ことによる漏えい、紛失等を防止するための技術的な措置は可能か。
問題内容の充実の程度
この方式を採ったとしても、試験時間の制約が存在すると考えられるが、どの程度問題内容の充実(字数、問題数)を図ることができるか。受験生の負担や実施体制を考慮しつつ、十分な試験時間をどのように確保することができるのか。
新テストの記述式利用に関する各大学の裁量
個別試験で記述式を全受験生に対して実施している大学・学部は、入試要項にアドミッションポリシーを明記し、新テストの記述式を利用しないことを認めることができるか。
大学関係者の理解・協力
記述式試験の実施が高校教育の質的向上を図る目的であるならば、国立大学のみならず、公私立大学を含めた多くの大学が入学者選抜にこの試験を導入しなければ効果がない。公私立大学関係者の理解と協力を得ることが可能か。
採点実施に係る財政措置の問題
各国立大学が大学入試センターの代わりに実施する採点に係る経費についての財政措置をどうするのか。

 これらの課題・論点に整合的にこたえられない限り、大学側が採点する方式を「現実的」などと断定することは不当である。

 

第二に、「負担」に関する議論で大学側を非難するのは一方的すぎる。産経記事は、「採点が面倒だと考える大学教員がいるなら、意識を変えるべき」と非難するが、これはあまりにも不当である。その理由の一端を述べれば次のようになろう。

  • 一口に大学と言っても、現実にどのような選抜方式を用いているかは極めて多様である。現在、国公立大学センター試験の成績と記述式問題を含む二次試験を独自に課して入学者選抜を行う方式が一般的であり、この観点からみれば自らの大学で育てる人材を選抜するために、既に記述式問題の作問と採点に相当の労力と時間をかけて自前で行っている。
  • 今回の新共通テストにある記述式試験は、与えられた採点基準と自分の大学のアドミッションポリシーに基づいた採点が求められているが、自らが作問に関わることはできない。そのような問題の場合、出題意図を共有できず、また採点基準の妥当性について採点者が十分な合意を得ることは極めて困難である。そのような形で採点を行うことは現実的にかなりの労力を伴い、場合によっては相当な苦痛を伴う。
  • そもそも記述式試験で出題される内容が、自分たちの大学の求めるアドミッション・ポリシーと整合的となる保証もなく、「どんな学生を採り育てていくか」とはおよそ無関係の問題の採点を行わなければならない能性も決して低くない。
  • 現在記述式試験を課していない大学の多くは私立大学である。これらの大学が大学側が採点するという方式を採用しづらいのは、単なる怠惰や意識の低さや無責任だからではない。ひとつは大学独自の選抜試験の実施時期とセンター試験実施時期とが石器真しているためにそもそも国立大学とは採点にかけられる時間的余裕が全く違う点である。また、これらの大学は入試の複線化にともなって多数回の試験を実施しており、受験者数も多く入試日程も過密になっている。そのような状況で受験者全員の記述式試験を統一した基準で採点するために必要な時間と人員の余裕が極めて少ない。

例えば上智大学(私立)の一般型の選抜試験は、センター試験を利用せず独自の試験を行っている。例えばマークシート方式や、記述式とは言っても単に答だけを書かせる方式が多数盛り込まれている。もちろん解答の過程を書かせる記述式や字数の多い記述式の問題もある。上智大学の入試日程を見ると、例えば、2月4日から2月9日までの6日間、毎日一般型の入学試験が実施され、(面接などを課さない学部学科の場合は)概ね5,6日程度で最終的な合格発表が行われている。この型の入試の場合、2015年度は6日間全体で1,385名の定員に延べ23,114名の志願者があった。ちなみに出願締め切りは1月25日であったから合格発表まで20日前後しかない。

 

これらの観点だけを見ても、大学側が採点するという方式のデメリットは、単なる「負担増」や「面倒だ」という感情的な面とは全く異なっている。こうした「現実的」観点を見落として大学側の怠惰や意識の低さや無責任を批判するのは極めて不当である。

 

何を批判するべきなのかが曖昧

思考力や表現力を重視するあまり、知識軽視となっては「ゆとり教育」の二の舞いになる。各大学の個別試験を含め、しっかり学ぶ教育につなげてほしい。

という記述は、全体として誰に何を要求しているのかが曖昧である。高大接続システム改革会議の最終報告は、個別大学の入学者選抜について、次のように述べている(p.43-44)。

具体的な評価方法としては、例えば、次のようなものが考えられる。
・ 「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の結果
・ 自らの考えに基づき論を立てて記述させる評価方法
・ 調査書
・ 活動報告書
・ 各種大会や顕彰等の記録、資格・検定試験の結果
・ 推薦書等
・ エッセイ
・ 大学入学希望理由書、学修計画書
・ 面接、ディベート、集団討論、プレゼンテーション
・ その他
今後、各大学の入学者選抜において、「学力の3要素」を評価するため、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」の導入による「知識・技能」「思考力・判断力・表現力」の十分な評価とともに、調査書や大学入学希望理由書、面接など多様な評価方法を工夫しつつ、「主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度」についての評価を重視すべきである。

産経記事の執筆者はこうした方針についてどう考えているのだろうか。そもそも今回の入試改革の大きな方針は、1点刻みの選抜から脱却し、個別試験でも上記のような「筆記試験以外の方法」を採ることを推奨することにあったのではないか。もし産経記事がそうした方向性に反対するなら文科省や上記最終報告書についてもっと直截に批判するべきだ。

 マークシート方式に対し、「考える力が育たない」との批判があった。

 という部分も内容が曖昧だ。マークシート方式の試験で全方位的な学力が測れるはずはないし、記述式試験に比べれば難易度も下がることは間違いない。しかしだからといってマークシート方式の試験に解答するために「思考力」が全く必要ないなどという議論は乱暴である。国公立大学で言えば、マークシート方式のセンター試験は事実上の「資格試験」であり、基礎的な内容全般を把握しているかどうかを短時間で網羅的にチェックする試験として十分な意味を持ち、しかも多くの科目で、ただ単なる用語選択ではなく、長めの記述の正誤判定や内容理解・資料の読解や考察といった内容を含むよう工夫が重ねられてきている。

他方、マークシート方式の試験のみで合否を判定する私立大学入試も多くある。それらの入試で学力が十分に測れないと批判することは可能ではある。しかし、これにも制度的な限界を十分に想像できていない面もある。

第一に、受験者数と試験の回数が多く、すべての試験で記述式の問題を作問・採点するだけの物理的な時間・人員の確保が難しい。

第二に、そもそも受験生のレベルを考慮すると、記述式試験では選抜に資する得点分布が得られない危険性もある。一般的にマークシート方式より記述式試験の方が難易度が上がるからである。

 

入試科目増を求める具体例の乏しさ

産経記事の後半では、

新テストに注目が集まるが、私大の推薦入試を含め、個別試験の改革を忘れてはならない。とくに受験科目が少ない入試の見直しを求めたい。

と入試科目増を求める記述がある。

受験科目を減らした「軽量入試」につながり、物理の知識がない理工学部生や数学が分からない経済学部生を生んできた。苦労するのは入学後の学生であり、その教育にあたる大学自身である。

 豊かな知識が身についてこそ、その先を学びたいとの意欲や創造力につながる。入試改革にあたって文科省などは明確にメッセージを発すべきだ。

 とある。「軽量入試」を批判する主旨は理解できる。しかしこれは、文科省のメッセージで解決できるような問題かどうかかなり疑わしい。

例えば一時期国公立医学部でセンター試験と2次試験で合計理科3科目を必須とした時期があった。しかし理科2科目のままとした医学部に志望者が流れ、結果としてそうした大学の偏差値が急騰したという事例もある。一部の大学が「科目増」をしても、それらの大学から受験生が離れるというだけという傾向があることは否めない。

しかし産経記事は

受験科目を増やしても、教育内容が伴うことで意欲ある受験生が増えた大学もある。

という。具体例を挙げるべきである。こういうことは宣伝になるのだから、具体例を明示しない理由はどこにもないはずである。この事例が十分一般的なものであれば大いに参考になるであろうが、この記述だけからではどういう事例なのかまったくわからない。

 

 

【新共通テスト記述式】NHK時論公論(9月8日付早川信夫解説委員)を批判する

NHK時論公論で大学入試改革の話題が取り上げられた。しかし、この記事は、本ブログで批判してきた朝日新聞およびその編集委員 氏岡真弓氏と読売新聞の記事と比べてもはるかに行き過ぎた表現や粗雑な分析を行う低劣なものであったと言わざるを得ない。今回の記事では、この「時論公論」の内容を取り上げて具体的に批判したい。

 [参考] 朝日記事と読売記事についての本ブログにおける批判

 

対象は難関大学を対象にした改革

まず、この時論公論の射程について次のように言及があることから見ておこう。

 大学入試改革と一口で言っても、受験生に人気があって偏差値が高いブランド型の難関大学誰でも入りやすい大衆型の大学とでは事情が違います。今回は、難関大学を対象にした改革に絞って考えます。焦点となっている記述式問題と英語の議論がどこまで進んだのか、実施にあたってどんな日程案が浮上しているのか、そして、今後どう議論すればよいのか、この3点を取り上げます。

 そもそも「受験生に人気があって偏差値が高いブランド型の難関大学」と「誰でも入りやすい大衆型の大学」という区分けが決して妥当なものであるとは思われないのだが、それ以上に、この論説では、「難関大学を対象にした改革に絞って」と限定されていることに注目しておく。これは少なくとも国公立大学や上位私立大学が念頭に置かれていると考えるべきであろう。この観点で、以下の記述に整合性や妥当性があるか見ていきたい。

事実をミスリードする記述

では、記述式問題をめぐる議論はどうなっているのでしょうか。
3つの案が浮上しています。
1つめは、これまでのセンター試験と同じ日程で行い、センターが一括して採点する方式です。混乱の少ない方式ですが、採点期間が短いために、記述式とは言っても短い回答しか求められない限界があり、考える力を測ったことになるのかが課題です。
2つめは、実施時期を12月に前倒しし、こちらもセンターが一括して採点する方式です。採点期間を長く取れる代わりに高校の授業内容をこなしきれないうちに試験となってしまうため、影響が大き過ぎると高校側が反対しています。
これら2つの案で行き詰っているところに、大学側から新たな提案が出されました。それが3つめの案です。実施時期は変えずに、採点を各大学が行い、2次試験の成績に反映させるとする案です。考える力を測るには数十字程度の短い答えでは中途半端すぎると第1の案を退ける形で提案されたものです。ただ、この案は、受験生が大学選びの参考にする1次試験の成績としては評価されないため、受験生にはメリットの少ない形です。また、大学ごとに採点に人手をかける必要に迫られるため現場の理解が得られるかという問題があります。

 文部科学省は3つめの案をもとに議論する考えです。これなら考える力を測るための長い文章を書かせる問題が出題でき、採点にも時間をかけられるとしています。しかし、2次試験の合否判定には使えますが、1次試験の成績としては使えないため、受験生にとってのメリットはあいまいです。3つの案のいずれもが、あちらを立てればこちらが立たずといった状態で、袋小路に入り込んだ形です。大学、高校の都合ばかりが先行して、最近流行りの言葉で言いますと、何が「受験生ファースト」なのか疑問です。

 これまで本ブログでは、朝日新聞の氏岡真弓氏による8/19付の記事に端を発し、読売新聞なども報じてきた新共通テスト記述式問題の採点方法に関する報道において、大学側に採点をゆだねるという方法について極めて一面的で状況をミスリードする報道が相次いでいることを批判してきた。この方法は決してメリットばかりではなく多くのデメリットが掲げられ、しかもどのような方法で行うべきかを国立大学協会は一切明言していないにも関わらず、である。しかしそれらと比較しても上記の記述は、さらに悪質であると言える。

 第一に、これまでの記事同様、大学側が採点するという方法を提案したというミスリードである。国立大学協会は、この方法を採用するよう提案しているわけではなく、現時点での「論点整理」において3つの案について特定の結論を述べるものではないとはっきり明言している。しかもここでは、国立大学協会」という主体を「大学側」と曖昧化している。難関大学に限定しても、公立大学や私立大学でもセンター試験を利用している大学は多い。また国立大学協会の委員会での議論が、必ずしも国立大学の総意とも言い切れない。あくまでも国立大学協会という主体が発表した論点整理であることを、この記事は完全に隠蔽している。

 第二に、国立大学協会の論点整理は、第1の案を「短答式」しか出題できないという理由で「退けている」わけではない。国立大学の論点整理は、この案について、時期と採点期間を現行と同一にするのは困難さが伴うので、成績処理の期間を国立大学2次試験実施直前まで伸ばす別方式を検討対象とすることも考えられるとしているのである*1。この記述は国立大学協会の論点整理の内容を歪曲している。

  第三に、文科省が3番目の大学に採点委ねる方式を軸に検討を進めるということは、公式にはまったく表明されていない。文部科学省の「高大接続改革の進捗状況について」の中では、まだ実施時期を含む全体の制度設計は方式が併記され、各方式に多くの問題点があることを明確に記述している。

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 第四に「受験生へのメリット」の記述の意図が不明確である。現行のセンター試験では、受験性は実際の点数ではなく公表された正答に基づく自己採点をもとに志望大学を決める。これはマークシート式で正答が確定するからである。他方、記述式の試験の場合、いくつかの解答例だけでは正答かどうか受験生側では判定可能とは限らなくなることが予想されるため、この得点も加味して出願先を決めると実際の得点との乖離が生じて2次試験で不利になる可能性もある。難関大学の場合には第一段階選抜を行う学部もあるため、その判定に得点が明確に定まらない試験を混在させる方がかえって受験生にとってリスクである。記述式において実際の点数を受験生に通知してには相当の手間がかかり、しかも現状のマーク式でさえ実際の点数を受験生に通知しているわけではない。そもそも2次試験での合否に活用されるとしたらその出来具合が自分の大学入学のために利用されるのだからメリットがあるのは明らかである。時論公論の記述こそあいまいで意図が不明確である。

 

これらの点は上記でも引用した国立大学協会文部科学省の公表している資料を読めば即座にわかるはずの内容である。早川信夫解説委員はそうした1次資料に十分にあたらずにこの論説を書いているのではないだろうか。これは朝日新聞 編集委員 氏岡真弓氏や読売新聞記事執筆者に共通する問題である。

 

お粗末すぎる提案

上記の記述に続く後半の部分はあまりにもお粗末である。

この入試改革論議、そもそもどこから出てきたのでしょうか。
安倍総理直属の教育再生実行会議が3年前に提言し、動き出したものです。グローバル経済を担う人材の育成のためには、測りやすい知識よりも測りにくいけれど将来役に立つはずの考える力を重視すべきだ、として一点刻みではない入試に転換するよう求めたことが始まりです。議論を引き継いだ文部科学省の専門家会議は、そうした意図を汲んで、1次試験の段階から受験生に考えさせる記述式問題の導入を提言したのです。大学や高校からすると、改革の意義はわかるけれど上から言われてしぶしぶ議論せざるを得なくなった。袋小路に入り込んでしまったのにはそうした事情があります。

とは言え、課題を乗り越える必要があります。どうすればよいのでしょうか。
共通に行う1次試験と各大学が行う2次試験とを切り分ける必要があります。1次試験としてやれることには限界があります。1次試験に何から何まで背負わせるのではなく、求めるような記述式問題は2次試験で大学ごとに行うことにすれば、議論はスッキリします。2次試験で記述式の問題を作るには、大学は研究資金の獲得など別の理由で忙しくなっていて手が回らないと言います。本当によい学生をとりたいなら、そんな泣き言を言っている場合ではありません。1次試験に任せきりにするのではなく、たとえば、志を同じくする大学同士が協力して問題を作り、共通に出題するという知恵を出してもいいはずです。受験生のためを思うなら、上から言われての改革ではなく、大学自身の問題として、自主的に解決を図るべきです。国立、公立、私立を問わず考えてほしい問題です。

一点刻み入試の解消、知識にとどまらない学力という改革の理念はそれなりに理解されるように思います。しかし、あらかじめ決めた工程表に合わせるために制度改革を急ぐのは禁物です。今から30年ほど前、共通一次からセンター試験に切り替わる前後の混乱を取材した経験からしますと、準備不足のまま急ぎ過ぎると、よかれと思って打った手がかえって混乱の原因になりかねません。
密室での限られた議論ではなく、広く知恵を集め、十分に議論を重ねてほしいと思います。混乱することで得をするのは受験産業でしかなく、振り回されるのは受験生だからです。熟慮を求めたいと思います。

第一に、議論が袋小路に入り込んでいるのは、50万人の受験する共通試験において記述式という出題方法を取ることが、実施方法のレベルで非常に難しいことに対する理解がなかったことである。また、国公立や私立上位校では2次試験や自前の入試でそもそも記述式の試験を課しているわけだから、共通試験で記述式を実施する意義やメリットが理解できないという点もある。端的に言って、提言を出す側が実態を無視した議論をしていることが最大の問題である。上の記述はあたかも上に言われてしぶしぶ議論せざるをえなくなった大学側や高校側に責任があるかのように議論をすり替えている

 

第二に、

共通に行う1次試験と各大学が行う2次試験とを切り分ける必要があります。1次試験としてやれることには限界があります。1次試験に何から何まで背負わせるのではなく、求めるような記述式問題は2次試験で大学ごとに行うことにすれば、議論はスッキリします。

という記述は何を言っているのか意味不明である。冒頭で注目したように、今回の論説の中で対象を「難関大学」に限定したはずだ。難関大学は現行制度において、何を1次試験に任せ、何を2次試験で問うかはっきりと区分し、入試を実施しているのである。1次試験では、基盤となる知識やその活用をマークシート式で試験し一定の資格試験として利用している。2次試験では記述式を含む問題でさらに高度な学力を問うている。すでに議論は「スッキリ」しているのである。1次試験に記述式試験を課そうという議論こそ、「1次試験に何から何まで背負わせ」ようとする議論そのものである。

第三に、

2次試験で記述式の問題を作るには、大学は研究資金の獲得など別の理由で忙しくなっていて手が回らないと言います。

という情報の曖昧さである。繰り返すが、本記事の冒頭で注意したように、この論説では、対象を「難関大学」に限定したはずである。難関大学は「手が回らない」のではなく、現に2次試験で十分な量の記述式試験を課している。研究資金獲得などという全く別の理由を持ち出して筋違いの情報を拡散するのは悪質と言わざるを得ない。

むしろ記述式試験を課すのが難しいのはどちらかといえば「誰でも入りやすい大衆型」と自ら冒頭でカテゴライズした私立大学の方である。その理由は明確である。多くの私立大学は入試の複線化にともなって様々な方式での試験を多数実施ている。記述式試験は採点に時間がかかるだけでなく、出題にも時間も人員も必要になる。記述式試験は多くの教員の眼でチェック作業を行わないと出題内容が固定化して偏向してしまったり、出題の内容が独りよがりの客観性を欠いたものになったり、さらには出題ミスをしたりする可能性が高まる。採点においても多数の答案を採点するためには複数の教員が採点基準を統一して臨む必要があり時間がかかる。これらすべての方式の試験で記述式試験を出題しようとすれば膨大な時間と人員が必要になる。要するに全てに記述式試験を課すには試験の回数が多すぎるのである。しかしこの複線化は何回もチャレンジできることという「受験生のメリット」を重視した結果であることは言うまでもない。

 

にも関わらず

本当によい学生をとりたいなら、そんな泣き言を言っている場合ではありません。

などと大学を糾弾する。ありもしない情報をもとに、あたかも大学側に問題があるかのような間違った断定を下す。このような記述の仕方は低劣としか言いようがない。少なくとも「難関大学」の教員たちは良い学生を選抜するために十分な時間を割いて出題や採点を行っているはずであり、そのことになにも「泣き言」など言っていないはずだ。むしろ共通試験の記述式問題というような、出題の意図もよくわからない問題をある日突然見せられて、日数を区切ってお前の大学のアドミッション・ポリシーに従って採点せよなどと言われることが苦痛だと言っているのである。

 

第四に、

1次試験に任せきりにするのではなく、たとえば、志を同じくする大学同士が協力して問題を作り、共通に出題するという知恵を出してもいいはずです。受験生のためを思うなら、上から言われての改革ではなく、大学自身の問題として、自主的に解決を図るべきです。国立、公立、私立を問わず考えてほしい問題です。

などというのはあまりに陳腐だ。「志を同じくする大学」という単語の空疎さ。「共通に出題するという知恵」などという無責任な記述。「大学自身の問題として、自主的に解決を図るべき」などという大学側への帰責論の横暴さ。全く同意できない。

各大学には様々な学部があり、志望する学生の質もさまざまである。それらを「志を同じくする」などという基準でカテゴライズすることにどれほどの困難さがあるか。共通問題で学力を測ることがどれだけ難しいことか。出題や採点には、出題者や採点者が顔を合わせて議論することが不可欠である。それを距離的に離れた大学同士が行うことがどれだけ非効率か。そしてそもそも上で述べたように、現在すでに、2次試験で記述式試験を作問し採点している大学に事実無根の不当な非難と帰責を行うのは全く理不尽というほかはない。

 

 まとめ

 9月8日付のNHK時論公論:袋小路の大学入試改革論議」は、

  • (朝日・読売と続く一連の報道と比較しても明らかに常軌を逸した)事実関係のミスリードと歪曲に満ちている。
  • 現状のセンター試験と2次試験の住み分けなどを十分に理解しないまま曖昧な言説と空疎な提案に終始している。
  • すでに2次試験で十分な量の記述式試験を出題し、採点することによって入学者を選抜している「難関大学」に対して、事実関係を無視した不当な非難を浴びせている。

という点で極めて低劣なものである。早川信夫解説委員には猛省を促したい。

*1:もちろんこれには私立大学の入試にどう利用するかという問題点はある。

【新共通テスト記述式】こんな読み取りで大丈夫なのか?

文科省が9月1日付で公開した「高大接続改革の進捗状況について」という文書がある。
この文書では、大学入試センター試験の後継となる新共通テストに記述式問題を導入することが盛り込まれている。この記述式試験の採点方法については、以下の記事で、
朝日新聞および読売新聞の報道姿勢を批判した。

また採点そのものの困難さについては以下の記事で指摘した。


これについては、日比嘉高氏の論説も大変参考になる。

特に「分厚い採点マニュアル」のくだりには、現実的恐怖がある。しかも、私はおそらくそうした採点マニュアルをどんなに分厚くしても実際に答案をちら見した程度で作られたマニュアルはほとんど役に立たないと思う。記述式の答案は多様で、しかも採点基準の確定が非常に難しいからだ。

 

さて、今回の記事では、採点における答案の読み取りとクラスタリングについて考えたい。記述式試験の採点に関して、OCRで答案を読み取り、テキスト化し、さらにクラスタリングで分類した後、目視で採点を行う方式が検討されている。

今回文科省が公表した文書のp.29にクラスタリング結果のサンプルが公開されている。

次の図がそれだ。

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このサンプル結果を一目見ただけで、このサンプル結果の惨状は明らかである。

60個の文例のうち、明らかな読み取りミスがない文例は2個しかない。

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「フリップ」が「フリック」や「つリック」や「クソップ」になっていたり、「る」が「3」と認識されてたり、句読点も読み取りミスがある。中にはかなりの部分が意味不明になってしまっている読み取りもある。これはもはや笑い話のレベルだ。

もし実際の答案のテキスト化がこれと同じレベルだとすると、テキスト化したあとに、すべての答案を点検して明らか読み取りミスは修正しなければならない。しかし、これは国語の試験であり、「てにをは」や「句読点の使い方」なども採点の対象になりえるので、この精査は慎重にミスなく行う必要がある。この労力も決して馬鹿にできない。また実際に目視で採点作業を行う場合でも、テキスト化されたものをPC画面で見るなどというだけでは全く安心できない。実際の答案のスキャンを手元に置いて確認しながらでなければ到底採点などできないだろう。

つまり、もしこの精度だと、クラスタリング以前の問題である。

 

 

 

【新共通テスト記述式】再び氏岡真弓氏を批判する

これまでの経過と本記事の内容

2016年9月2日付の朝日新聞に2つの記事が掲載された。

である。後者は、このブログで一貫して批判してきた教育社説担当の編集委員 氏岡真弓氏による署名記事である。前者は署名記事ではないが、教育に関する社説である以上、氏岡氏がその内容に関わっていると考えられる。今回はこの2つの記事のうち、社説の内容について批判する。

 社説の記事は、文部科学省が公開した次の文書に関連している。

 後者の記事は、中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会がまとめた

である。これは大部にわたっており、私はすべてに目を通したわけではない。

 

なお、過去にこのブログで氏岡真弓氏の記事について批判したものは以下の2つである。

 


相変わらず具体的な案が提示されているとするミスリード

文部科学省が公開した「 高大接続改革の進捗状況について」という文書の報道に関しては、この社説と同じ9月2日に読売新聞の社説も取り上げている。内容的には読売新聞の社説は朝日新聞のこの社説に比べるとさらに酷く、粗雑な内容であった。そのことは次の記事で批判した。

この読売社説に比べると、朝日新聞の社説は、やや穏やかな記述で始まっている。

新しい試験の具体像を早く示し、オープンに議論すべきだ。

 大学入試センター試験に代わって2020年度に始める共通テストについて、文部科学省が検討状況の中間発表をした。

 読売新聞の社説が「大学入試センター試験に代わり、2020年度から導入される新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」について、文部科学省が大学・高校関係者と検討してきた具体的な実施案を公表した。」と明らかにミスリードする記述をしていることに比べれば、この記述は「進捗状況について」と題する文部科学省の文書に沿っていると言える。

しかし、

入試改革の議論は迷走を続けてきたが、今回示されたのは、これまでよりは実現可能性のある案といえる。

と続く。相変わらずである。今回の文書では、何らの具体的な案を示し、これで実施すると結論付けているわけではない。p.12の記述はこうだ。

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3つの案のどれを採用するとも決めていない以上、今回の文書が、これまでよりもは実現可能性のある案を提示したとする記述は一面的である。実施方法は現状何も確定していないと言わざるを得ない。

 

一つは記述式問題の導入について、受験生の出願先の各大学が採点する案である。

 文科省が考えていたのは試験を12月に前倒しする案や、マークシート式とともに1月に実施する案だった。

 だが高校教育への影響が大きかったり、採点期間が短く短文で答える問題しか出せなかったりして出口が見えなかった。

 それに対して今回の案は各大学の2次試験の合格発表までに採点すればよく、時間の余裕が生まれ、出題の幅が広がる。

 ただ、これにも課題がある。どこまでの大学が採点の負担を受け入れて利用するか。国公立だけでなく私立や短大も含め、どう対応できるかだ。

 まだ3つの案が併記された状態であるにもかかわらず、この記述はあたかも今回の文書では3つ目の案だけが提示されているかのような書きぶりだ。

これまで指摘し批判してきたように、氏岡真弓氏は8月19日の記事から一貫して、文科省は大学側が採点を行う案で進めるとしている、という情報を発信し続けている。公表されている文書の内容とは異なる情報発信を続けていることになり、この点は極めて重大で悪質なミスリードだと言わざるを得ない。

 

作問の方向性について十分に資料を検討しているとは思われない

 

前提となるのがセンターがどんな問題を出し、大学の採点の負担をどう軽くできるかだ。文科省は相当数の問題例を公表し議論の土台を示してほしい。

 もう一つは英語の「聞く、話す、読む、書く」の4技能をめぐり、センターと民間の試験を合わせて評価する案だ。将来は民間への一本化を目指す。

 数十万人が一斉に受ける試験で、センターが「話す」「書く」力を測るには限界がある。

 かといって、どの民間試験でもよいわけではない。学習指導要領をふまえているか、受験料は適正かといった基準を設けるというが、中身によってテストの質が左右されよう。文科省は具体的な基準を示すべきだ。

 生徒が高得点を目指し何度も受験し、高校生活が試験漬けになる恐れがある。経済的な余裕のない家庭の子は何度も受けられず、豊かな家の子との間に不平等が生まれる可能性もある。

 いずれも対策が欠かせない。

 そうした検討の素材が示されて初めて、記述式や4技能試験をそもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる。

 これらの記述にはいくつかの問題があるが、それらを端的にまとめると、具体例を示せという要求が空疎なものにしか聞こえないということだ。どのような対象者に、どのような内容で、どのような技能を、どのような問題として問うか、ということの大枠がなければ、問題例など作りようがない。にも関わらず、社説は「相当数の問題例」が示されて初めて「記述式や4技能試験をそもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる」と述べている。共通試験で何を問うかという大枠を確定させることなく先に問題例を公開することなど無理な要求だ。しかもこのような記述は、今回の「進捗状況について」という文書の中に記載されている内容を十分に精査しているとは到底思えない。

 たとえば国語の記述式問題を扱った部分では、まず問題を考える思考のプロセスを図式化した上で

国語の問題として解答させる内容としては、以下の4種類に大別できる。
[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題
[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題
[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題
[4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題

と整理し、さらに、

 大学入学者選抜においては、これまでは、「テクストの内容(筆者の考えなど)を説明する問題」が中心であったが、今後は、「テクストの内容を基に考えを文章化する問題」を導入することが重要である。


 これまでの大学入学者選抜等における国語の記述式問題を分析すると、「[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題」や、テクストを要約したり、共通点・相違点をまとめたりするなどの「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」が中心となっている。
これに対し、考えたことを文章により表現する「[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」は、散見される程度となっている。
他方、「[4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題」は、テクストから得た情報を既有の知識・経験等に統合することなどにより、自分の考えを論じるものであることから、小論文などの解答の自由度の高い記述式として出題されている。(解答の自由度の高さから、個別選抜に馴染みやすい)


 これらを踏まえ、共通テストの国語の記述式においては、「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」だけでなく、「[3]テクストの全体的な精査・解釈
によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」を条件付記述式として出題することを想定している。
このことにより、「精査・解釈」に関わる資質・能力(例えば、論理(情報と情報の関係性)の吟味など)だけでなく、「考えの形成・深化」に関わる「情報を編集・操作する力」をよりよく評価する作問に取り組むこととする。

 と述べている。しかも別紙には次のような図が付けられており、試験で問う能力を分析している。

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これらの点では、今回の文書の中で一定の方向付けが示されていると言ってよいだろう。今回の朝日社説は、実施方法という具体案の決まっていないことをあたかも具体的な案が決まっているかのように述べる一方で、出題の内容については少なくともたたき台が示され一定の方向付けがなされているのに、そこにはあたかも具体的な案が何もないかのような記述を行っている。

文科省の文書の疵

文科省の文書に瑕疵がないわけではない。というよりも、文科省の文書も「考え」という観点についての記述があいまいで揺れているように思われる。そこを勝手に独断してしまうと、氏岡氏がかつて書いていたような

「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」

 というさらにミスリードするような記述が出てくる。このようなミスリードが生じる第一義の責任はあいまいな文章を書く文科省側にあるが、本来曖昧な部分はその曖昧さを指摘し、そこでこそ具体例などを用いてその曖昧さを除去するように努めるのが情報発信者のするべきことであって、曖昧な部分を自分流に解釈して記述してしまえばさらに議論を混乱させてしまうことになる。

 

私がここで文科省の文書があいまいであると考えている点を一言で言えば、[2]と[3]と[4]の切り分けが曖昧だということである。

第一に「考え」ということの示す範囲が不明瞭だ。

「テクストの内容(筆者の考えなど)を説明する問題」が中心であったが、今後は、「テクストの内容を基に考えを文章化する問題」を導入することが重要

 としつつ

 [4]テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して解答する問題

 は個別入試になじむとする整合性の問題である。

例えば別紙の図では、[4]について

  • テクストにおける筆者の主張を踏まえつつ、自分の考えを形成して論じる
  • テクストに示された図表等の情報を分析した上で、仮説を立てて、自分の考えを論じる
  • テクストの論旨を踏まえて、既有知識・経験を具体的に挙げながら、自分の考えを論じる
  • テクストを踏まえて、テクストと自分自身との関わりについて考えたり、想像したりして、自分の考えを形成して論じる
  • テクストの全体的な精査・解釈を踏まえ、自分の考えと統合・構造化して、考えを形成し深める
  • (テクストの情報を用いつつ、)自分の考えを論じる

という項目が掲げられ、[3]では

  • テクスト全体の論旨を把握し、推論による内容の補足をして、筆者の主張について論じる
  • テクスト全体の論旨を把握し、既有知識や経験による内容の精緻化を行って論じる
  • テクスト全体の論旨を把握し、目的に応じて必要な情報を付加、統合して比較したり、関連づけたりして論じる
  • 複数のテクストの妥当性を吟味し、情報を統合・構造化して論じる
  • テクストの全体的に把握・理解し、精査・解釈を踏まえて、情報を編集・操作して、考えを形成し深める
  • テクストの情報を多角的・多面的に精査し構造化したり、構成・表現形式を評価したりする等の精査・解釈によって得られた情報を操作・編集し、テクストの内容を説明する

という項目があげられており、[3],[4]いずれも「考えを文章化する問題」と括られている。この「考えを文章化」という記述と「自分の考えとの統合」という記述は何が違うのか、である。具体的な項目を見ると違うようにみえるが括り方との整合性が曖昧である。

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この図では、[3]と[4]を分けるのは「テキスト内の情報の編集・操作」か「テキスト外の情報との統合・構造化」の違いであるが、この違いは非常にわかりにくい。

また、p.39の大学入学者選抜改革推進委託事業のひとつを説明する図の中で、「国語問題の内容のイメージ例」の中に

文章や図表等の内容を踏まえ、自説を展開する 

 というような文言も入っている。これも前段の整理との整合性がはっきりせず不用意であったと言わざるを得ない。

 

第二の問題点は、実際上[2]と[3]の違いも実ははっきりしないことにある。[2]については

  • テクストにおける筆者の主張とその主張の理由・根拠を説明する
  • テクストに表現された事物について、目的・場面・文脈・状況等を説明する
  • テクストの会話や表現等に着目して、登場人物の心情の変化等を説明する
  • テクストを通じて対比されている事項について考察し、共通点や相違点について説明する
  • 目的に応じてテクスト全体を要約し、論旨に沿って説明する
  • テクストを全体的に把握・理解して、精査・解釈を行う
  • テクストに示された情報と情報の関係性を吟味する等、精査・解釈して答える

が挙げられている。確かに文章上は「説明する・解釈する」と「論じる・考えを形成する」という違いがある。しかし、実際にどのような問題が両者の違いなのかはっきりしない。これはこの文書の中で

これまでの大学入学者選抜等における国語の記述式問題を分析すると、「[1]テクストの部分的な内容を把握・理解して解答する問題」や、テクストを要約したり、共通点・相違点をまとめたりするなどの「[2]テクストの全体的な精査・解釈によって解答する問題」が中心

これに対し、考えたことを文章により表現する「[3]テクストの全体的な精査・解釈によって得られた情報を編集・操作して解答する問題」は、散見される程度

 と述べている以上、これまでの大学入試の国語記述式問題で判断できる。つまりここでは(新たな問題例ではなく)実際の入試問題が例として挙げられるべきだった。

記事を書くためにするべきこと

文科省の文書を十分検討すれば、どの部分が曖昧で、その曖昧な部分をより明確化するためにはどのような補足情報が必要かわかるはずである。単に「文科省は相当数の問題例を公開せよ」などという要求をしても空疎なだけである。文科省の文書では、具体的な項目を設定して、共通試験で問うべき内容は明示している。その内容をより明らかにする具体例を求めるべきであった。

ここを明確にせず曖昧なまま放置して文章を書いてしまうから、氏岡氏の文章にある

「これまでの記述式で中心だった文章を理解し説明する設問と違い、自分の考えを書く問題づくりが可能」

のようなさらに曖昧な言説になってしまうのである。あるいは社説にあるような「相当数の問題例の公開」の後に「そもそも共通テストに盛り込むべきか、それとも個別試験で測るべきかも考えられる」という順序の逆転した記述になってしまうのである。

 

自らのミスリードを棚に上げて公開を求める不誠実さ

この節で、私は、今回の社説も氏岡真弓氏が主導して記述を行っているという前提で議論する。

 とある以上、氏岡氏はこの社説の執筆に関与しているとみてよいと思うが、もし氏岡氏がこの記事に全く関与していないなら、以下のいくつかの記述は撤回する用意がある。

 朝日社説は、次のように述べて社説を締めくくっている。

経過がわからないまま結論を出されても納得はえられまい。

 高校や大学、保護者、そして生徒にこたえるためにも、議論を公開すべきである。

 私は、過去の記事で、氏岡真弓氏が、8月19日に極めて不可解な形で「大学側が採点する方法」について報道し、あたかもこの方法が既定路線であるかのようにミスリードすることによって、結果的に問題の多い方法の採用を後押しすることになっているのではないかと批判した。しかも国立大学協会の「論点整理」が出た後になってもなお、この方法が有効であることを「論点整理」の内容を十分に記述しないまま情報発信し続けたことも批判した。さらに氏岡氏の「記述式試験」に関する識見や調査に不十分さがあることも指摘した。これらを通じて、私は氏岡氏が8月19日の記事の記事化の経緯と「記述式試験」の内容に関する解釈について、説明するべきだと述べた。今回の社説の記事においてもなお、ここまでに行われたミスリードに関する修正も行われていないし、公表された文書を十分に検討したと思われない不正確な記述があることを上で指摘した。

氏岡氏こそ、今回の一連の報道や記述の内容について説明するべき責任があると考える。それを棚上げにして、文科省の会議の公開を求めるのは不誠実だ。

「経過がわからないまま結論を出されても」と言うが、そもそも今回の「進捗状況」の文書を詳細に検討すれば、どのようなことが検討され、新共通テストで何を問おうと考えているのかかなりの分量で記載がある。まずその内容を正確に把握し報じるべきだ。少なくともこの社説のような文章を書いてしまうのでは、公表された文書すらまともに読めないということを自ら示してしまっている。このような文章を書く人にいくら情報提供しても正確な理解は得られないと通常は判断する。

そして上のツイッターのつぶやきである。

生徒、保護者、高校、大学は不安を抱えている。会議は公開を。

この間の一連の報道で、大学関係者に不安を抱かせているのは氏岡氏の署名記事に端を発する、大学側が採点する方法があたかも決定事項であるかのような報道にある。不安を煽っているのはほかならぬ氏岡氏自身である。

私は、このような自分の行ったことを棚に上げ、あたかも文科省の対応が「不安」の原因であるかのような書き方は卑怯であると言わざるを得ない。報道に携わる者は、自分の報道が一般社会での一定の議論の方向性や見方を決定づけてしまうことにもっと自覚的でなければならないと思う。私は少なくとも氏岡氏はこの話題に関して情報発信を行う者としての適格さを欠いているのではないかと考えている。

 

 

 

 

 

 

【新共通テスト記述式】2016年9月2日付読売新聞社説を批判する

2016年9月2日の読売新聞に、「大学入試改革 受験生のためになる1月実施」とする社説が掲載された。しかし、この社説の内容は、実際の発表内容をミスリードしかねない非常に悪質なものであると言わざるを得ない。以下、この社説の内容について具体的に批判する。

そのために、文科省が9月1日付けで何を公表したのかという点を明らかにする必要がある。公式の文書は次のものである。

今回の記事では、この文書の内容と9月2日付け読売社説の内容を比較しながら批判する。

公表されたものは何であるのか?

読売社説の冒頭はこうだ。

  受験生の思考力などを的確に評価できる試験にすることが肝要だ。

 大学入試センター試験に代わり、2020年度から導入される新テスト「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」について、文部科学省が大学・高校関係者と検討してきた具体的な実施案を公表した。

 この記述は完全に勇み足であり、文書の内容と全く整合していない。

文科省の公表した文書の中には、

  • 平成28年4月に「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」検討・準備グループを設置し、記述式・英語の実施方法・時期等について検討中。
  • 「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)(以下「新テスト」という。)」検討・準備グループにおいて、平成29年度初頭の実施方針の策定・公表に向け、以下のとおり、記述式や英語の制度設計をはじめとする各論点について検討・整理。
  • 特に、記述式については、教科専門家やテスト理論家等の協力を得て、作問方法と採点方法に関する各検討チームを設け、作問の構造化や採点方法の在り方等について具体化を進めている。

とある。さらにより詳細に

現在、次の三つの案を検討。
【案1】1月に実施し、センターが採点する案
【案2】12月に実施し、センターが採点する案
[1] 記述式とマークシート式を同一日程で実施する案
[2] マークシート式は従来通り1月に実施し、記述式を別日程で実施する案
【案3】1月に実施し、センターがデータを処理し、それを踏まえて各大学が採点する案


※ 【案1】については、採点期間が短期間となるため、精緻な採点が可能かという課題が生じるとともに、出題できる記述式問題の量・質が極めて限定的なものとなる。
※ 【案2の①】に対しては、高等学校教育の影響、運動部活動への影響の観点から、また、【案2の②】については、受験者の負担、実施体制の確保の観点から、関係者
から懸念が示されており、十分な検討が必要。
【案3】は【案1】から派生したものであるが、この案には、出題や採点の幅が広がるメリットがある一方、多くの検討すべき論点・課題もあることから、今後、それ
らについて十分な検討が必要。

 と記述されている。これらの記述をもとに、「具体的な実施案」などと書くのは状況をミスリードするものである。

どの時期に、どのような内容で、だれが採点するのか、現状では全く煮詰まっていないことを意味している。どの案にもメリットとデメリットはあることがはっきり明示されている。特に、大学側に採点を委ねる案には、「多くの検討すべき論点・課題」があるとはっきり記されている。

相変わらず大学側が採点する方法について事実関係や内容をミスリード

にもかかわらず読売社説は次のように言う。

実施案では、出願先の各大学が記述式の採点を担う方式が打ち出された。国立大学協会の提案だ。有効な打開策だろう。採点作業が効率化されるため、センター試験と同じ1月中旬にテストを実施できる。この点はメリットだ。

この記述はほぼすべての記述に問題がある。

第一に、既に指摘したように、今回の文科省が公表したものはあくまでも「進捗状況」に関する報告であり、具体的な実施案でもなければ、大学が記述式問題の採点を担うことを確定したわけでもない。にもかかわらず「実施案」「打ち出された」などの表現を利用して、あたかもこの方式が決定したかのようなミスリードが行われている。

第二に、大学側が記述式問題の採点を行う方法を、国立大学協会が提案したというのは現在のところ明確に誤りである。国立大学協会が8月19日に公表した文書は、

であり、この中で

今回の文書は、表題の通り「論点整理」であって、特定の結論を述べているものではない。

と明確に述べている。従って、この文書で「大学側が記述式の採点を担う方式」が「国立大学協会の提案」であるとと記述するのは明らかに誤りであるというほかはない。これは「有効な打開策」という読売社説執筆者の勝手な判断を既定路線化するためのミスリードであると言わざるを得ない。事実、読売社説の中には、この方式が多くの問題を抱えていることに対する言及が一切ない。これは、国立大学協会の「論点整理」ではもちろんのこと、文科省が公表した「進捗状況について」の文章ですら明確に言及しているにもかかわらずである。

 これら2点は、朝日新聞編集委員 氏岡真弓氏による極めて不可解な先行報道と、「大学側に採点を委ねる方式」の本質的なデメリットを隠ぺいしたまま既定路線化させかねない記事に端を発しており、

でも批判した。

この記事の続編にあたる

 でも取り上げたが、読売新聞も、8月20日付の記事『大学新テスト、英語「話す」で民間試験の活用案』の中で、既に上記の2点に相当する問題のある記述を行っている。

 国大協は記述式の採点を、受験生の出願先の各大学が行う案を示した。(中略)国大協はテストを1月中旬に実施しても、各大学が採点すれば200字~300字程度の記述式が導入できると想定。大学による採点が難しい場合は、採点期間を国立大学前期試験直前の2月下旬まで延長する別の案も示した。

 この記述の時点ですでに読売新聞は、国立大学協会の「論点整理」の内容を踏み越えて、その内容を歪曲して報道していることになる。今回の読売社説は、この記事の内容と符合したものであり、氏岡氏の記事と同様、問題の多い案をあたかも既定路線であるかのようにミスリードする記事であり悪質だと言わざるを得ない。

記述式試験に関する不見識としか言い様ない記述

 読売社説には、新共通テストに関するいくつかの点に関して、明らかに不見識としか思えない記述が散見される。これが第三の論点である。

 実施案では、出願先の各大学が記述式の採点を担う方式が打ち出された。国立大学協会の提案だ。有効な打開策だろう。採点作業が効率化されるため、センター試験と同じ1月中旬にテストを実施できる。この点はメリットだ。

 「採点作業が効率化されるため」とはどういう意味なのか。全く理解しがたい。これは「実施できる」の根拠記述としか読めない。しかし、出願先の各大学が記述式の採点を担うことにより、なぜ採点作業が効率化されるのか、その論理関係が全く理解できないのである。

この記述よりも前に

記述式導入の最大の課題は、採点期間の確保だ。民間委託などで採点した場合、20〜60日かかると試算されている。

との記述もある。大学側が採点すると、何らかの効率化によって、採点期間が短くて済むとでも言うのだろうか?これは、読売社説の執筆者の、この問題に対する見識、あるいはそれ以前に論理的に文章を書く資質にさえ疑問符が付きかねない記述である。

現在のところ採点作業の効率化は、コンピュータによるクラスタリングにかかっているということになっており、そのことは、読売社説のこの文章よりもあとで触れられる内容である。

実施案では、出願先の各大学が記述式の採点を担う方式が打ち出された。国立大学協会の提案だ。有効な打開策だろう。採点作業が効率化されるため、センター試験と同じ1月中旬にテストを実施できる。この点はメリットだ。

 円滑な実施には、明確な採点基準を示すことが大切である。大学側の協力も欠かせない。文科省は教員を中心とした採点者の確保など、各大学の体制整備を支援する必要がある。

 記述式の答案はまず、大学入試センターがコンピューターを用いて、キーワードなどを基に大まかに分類する。その上で、各大学が成績を段階別で評価する方式が想定されている。

 コンピューターなどによるデータ処理技術が向上すれば、大学の負担は軽減されよう。

 出願先が複数にわたる場合の対応や、個別入試の時期が早い私立大との調整も重要になる。来年度に始まる試行テストで課題を検証し、着実な実施につなげたい。

もしかしたら、途中で推敲する際に漏れたのではないかとさえ疑いたくなる記述である。

 さらに、この記述には複数の問題点が潜んでいる。

まず「コンピューターによるデータ処理技術が向上すれば」とあるが、これは明らかに現状ではまだそうした技術が十分とは言えないことを示している。しかもクラスタリングによって答案を分別することによって本当にしア点を効率化できるのかという本質的な問題すら未解決ではないか。問題は、将来的な技術の向上という曖昧な見通しに立脚して、記述式採点を効率化でき、大学の負担は低減できるのだから、大学に採点させる方式が有効だ、と判断し実行に移すことを提唱する、その倫理観の欠如だ。大学に採点させる方式にしたとして、この技術の向上が上手くいかなかった場合、効率化されない過重な負担を大学側に負わせることになる。その責任はどう果たすのであろうか。

文科省の公表した「進捗状況について」という文書には、クラスタリングに関する部分も記載がある。しかし、p.29にある「クラスタリング結果のサンプル」には一見だけで明らかな問題がある。この点については別の記事で触れたいと思う。しかし、その以前に、文科省の側は読売社説よりずっと慎重な言い方をしていることを指摘したい。

現在の技術水準で実現可能な方法により、答案の読み取り、文字認識によるデータ化、キーワードや文章構造による分類(クラスタリング)を行うことについて、民間事業者の知見も踏まえながら検討。

 将来技術革新があることを前提に新しいシステムを導入してしまうのは無責任極まりない。現状できる方法で導入し、もし技術革新があれば置き換えていけばよい。いまできる方法で十分に効率化できていないなら、安易に将来を夢想してはいけない。

次に、そもそも「明確な採点基準」がいかに困難なことであるかということに対する無自覚さがある。このことは実際にいろいろな例を見てみれば即座に了解できるはずのことだ。50万人が受験する試験で、記述式答案の採点基準を明確なものにすることが極めて難しい。これについては

の中で、PISAの落書き問題と2016年度東大現代文第一問を例に論じた。

そしてさらに、「来年度に始まる試行テストで課題を検証し、着実な実施につなげたい。」という記述の無責任さだ。「出願先が複数にわたる場合の対応」や「個別入試の時期が早い私立大との調整」は、試行テストによって検証できるものではない。これは制度の問題そのものである。試行テストで検証できるのは、問題の内容や採点基準の作成、そしてクラスタリングの有効性などの方である。つまり、試行テストで何を検証できて、何を試行テストとは独立に設計しておかなければならないかが全く理解されていない記述になっているのである。

文科省の「進捗状況」でもプレテストについて

新テストを円滑に導入・実施するため、記述式の作問・採点を含むテストの信頼性・妥当性、試験問題の難易度や試験運営上の課題、不測の事態発生時の対応、民間の活用の検証等を行うための試行テスト(プレテスト)の実施に向けた必要経費を要求。

 とある。「出願先が複数にわたる場合の対応」や「個別入試の時期が早い私立大との調整」は試行テストとは殆ど無関係だ。

 

 

曖昧で十分検討したとは思えない記述は、前半にもある。

マークシート式のみのセンター試験に対しては、理解度を十分に測れないとの批判がある。大学側からは、学生の「書く力」が不足しているとの指摘が目立つ。

 知識量だけでなく、思考力、表現力を測るため、新テストに記述式を導入する狙いは理解できる。入試の改革で、高校の授業を変える効果も期待できよう。

 センター試験は「理解度を十分に測れない」とはどういう意味だろうか。センター試験が「知識」だけを問うているというのは、相当怪しい迷信だと思う。たとえば国語の試験は、「知識」だけが問われているわけではないし、問題を解くために「思考力」が不要であるとは到底思えないし、「理解度」も一定の側面からは測れている。

学生の「書く力」が不足しているという指摘は、新共通テストに「記述式問題」を導入するべきという主張と直接は結びつかない。そもそも国公立ならば(推薦や一部の後期入試の方式などの例外を除けば)二次試験で文理を問わず何らかの科目の記述式試験を通過して合格しているはずだ。

この辺りは、マークシート式試験と記述式試験を共通テストとして実施することで何を測ろうとするのかという点を十分に検討しなければならず、文科省は現在それを検討していると表明しているのである。読売社説はこうした点について十分に検討していないために、言葉の選び方や記述が曖昧で意味がはっきりしない形になってしまっているのである。

 

新共通テストの英語試験に関する点でも言葉の選び方に疑問がある部分が見受けられる。

英語で活用する民間試験について、文科省は一定の基準を設けて認定する方向だ。公性の確保や受験料負担の抑制が望まれる。

「公正」という言葉遣いは、不正やごまかしのないことを通常指す。民間試験を導入する際に、試験の公正性が問題になるというのは通常考えにくい*1

問題なのは、試験の公性だ。

ある年度の大学入学者を選抜する際、実施団体が異なる試験や実施団体が同じでも実施時期が異なる試験の結果を用いることは、選抜の公平性とどう折り合いをつけることができるのか、ということが問題なのである。

まとめ

全体として9月2日付の読売新聞社説は、

  • 新共通テストの記述式試験の採点に関する情報のミスリード
  • 大学側が採点する方式のデメリットを実質的に隠ぺい
  • 新共通テストや記述式試験の内容や問題点について十分検討せずに書かれたと判断せざるを得ない粗雑な記述

という問題点の多いものであった。こうした記述は報道機関としての公平性や信義を欠いたものであると言わざるを得ない。

 

 

 

 

 

*1:2014年にBBCが報じたTOEC、TOEFLの実施を委託されていた団体の不正行為などの例はあるが、それは民間試験を導入する場合の第一義の問題とは言えないだろう。